近年修復されたレストハウス
ビルの中でアラートが鳴ったらどうしたらいいだろう。内閣官房国民保護ポータルサイトの「弾道ミサイル落下時に取っていただきたい行動の例(避難訓練の場面から)」を覗いてみると、学校でもオフィスでも、机の下に身を隠している写真がある。やらないよりは、やったほうがいいとは思うのだが、命が危ないことに変わりはない。
広島市の平和公園内に鉄筋コンクリート造地上3階地下1階のレストハウスがある。この建物は、大阪の呉服問屋が広島市で開業していた「大正屋呉服店」の新店舗として1929年に建設された。(広島平和文化センター『平和文化No.201』2019)
戦争が激しさを増した1943年になると大正屋呉服店は閉店を余儀なくされ、建物は県燃料配給統制組合に接収されて組合の本部が入り、燃料会館と呼ばれた。1945年8月6日、県燃料配給統制組合には37人が出勤し、その中でただひとり助かった野村英三さんは地下室にいた時に原爆の轟音を聞いた。
すぐに電灯が消えて室内は真っ暗になった。頭には何か固いものが当たって血が流れたが、手記には爆風に吹き飛ばされたとは書かれていない。瞬時にコンクリートの壁か何かが崩れて地下室への入り口を塞いだからではなかろうか。しかしそれでは階段を上がって外に逃げることができない。
奥の方から闇をついて、助けてくれーと男の声だ。その声がつづいて聞えてくる。そして直ぐ泣き声にかわった。オオーン、オオーン、と。自分は急いで登りつめたとたんに、頭をごつんと打った。手でさわってみるとコンクリートの壁らしい。両手で押してみたが、ビクともしない。出られない!(野村英三「爆心に生き残る」『広島原爆戦災誌』
その時、ゴーという水の音が聞こえてきた。野村さんは、水道管が破裂したと思った。だとすれば地下室は水没。それからはもう無我夢中で、気がつけば1階にいた。地下室にもう一つ階段があったのではなかろうか。
燃料会館は爆心地から170mという至近距離にあった。真上からの衝撃波で屋根が押しつぶされたが、建物の形はかろうじて残った。しかし部屋の中はとんでもないことになっていた。
広島原爆死没者追悼平和祈念館に収められた手記の中に、匿名で8月6日に県燃料配給統制組合に初出勤した19歳の姉の思い出を書かれたものがある。姉は広島赤十字病院に収容されているのを母親が探し当てた。
姉との再会後に聞いた話ですが、職場で席に座っているときに被爆し、そのとき、机の足が体にぐさっと突き刺さったそうです。その刺さった足を自分で引き抜いて、建物の近くを流れる元安川にみんなが水を求めて逃げたため、姉も一緒に逃げました。川に入るとみんな流され、次々と亡くなっていったそうです。姉は最後の力を振りしぼり、流されないようどこかにつかまり、必死に耐えていました。(匿名「つらい想い出~姉との別れ~」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
爆心地周辺のビルでは爆風で机も吹き飛ばされて凶器と化した。椅子もロッカーも壁も同じように凶器になったに違いない。もちろん粉々に砕け散ったガラスもだ。人は机ごと吹き飛ばされ、壁や天井に激突し、そして全身にガラス片が突き刺さる。
匿名の手記には、その人の姉が息を引き取ったのは8月11日と記されている。