被服支廠は何を語る6 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 戦争が長引けば、沖縄戦の次は九州が戦場となるはずだった。アメリカは1945年11月に鹿児島県、宮崎県に大軍を上陸させる計画を立て、日本もそれを予測して60万もの兵力を九州に集めた。

 鹿児島県西部にある吹上浜。1945年夏、当時10歳だった中山重雄さんの家に異様な風体の兵隊がやってきた。

 

 終戦間際に陸軍の兵隊6人が突然うちを訪ねてきて、自宅の納屋で寝泊まりを始めた。6人もいるのに鉄砲は2丁しか持たないなど装備も貧相で、何をしに来たのか不思議で仕方なかった。

(中略)

 兵隊さんたちは40歳近くで、軍服もぼろぼろ。配給される食事も家畜のえさのようなものしかなく、日本もいよいよ危ないのではないかと子どもながらに思った。(NHKスペシャル取材班『戦争の真実シリーズ①本土空襲全記録』KADOKAWA2018) 

 

 中山さんのところにやってきた兵隊はやがて奇妙な訓練を始めた。長さが1メートルほどの丸太を担いで張りぼての戦車の下に潜り込んでいく。爆弾を抱えて戦車に突っ込む「特攻」の訓練だ。そしてそれは自殺の訓練でもあった。

 鉄砲がなくても、軍服がぼろぼろでも、すぐに死んでいくのだから、軍の上層部にとってそんなことはどうでもよかったということだろうか。

 体を壊しても軍服や野戦用の蚊帳を縫い続けた女学生、汗水垂らして自分より重い荷物を運んだ中学生は、大量の軍服が山林に運ばれて放置されたことを知ったらどう思っただろうか。動員された女学生の手記が残されている。

 

 この蚊帳は、本当に役に立ったのだろうか。3年生の時、シンガポール総攻撃という映画を学校から観に行った。熱帯のあの奥深いジャングルの枝々に、吊り輪をひっかけて背嚢まくらに夜営をするのだろうか。(中略)それらの戦場で、私たちの製作品は兵士を守っていたのだろうか。(皆実有朋アーカイブズ継承委員会「広島第一県女の学徒動員」皆実有朋会2017 旧被服支廠の保全を願う懇談会編『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』2020より)

 

 学徒動員によって失われたものはいろいろだ。もうすぐ94歳になる私の母親は今でもぶつぶつ言っている。せっかく女学校に行かせてもらえたというのに、働かされてばかりで全然勉強できなかったと。命が助かっただけよかったと思わなければならないが、そう簡単に納得できないのが人間というものかもしれない。

 ただ、疎開も全くの無駄というわけではなかった。後に「原爆市長」として知られる浜井信三さんは当時市の配給課長だった。原爆で焼け野原となった広島でおにぎりの配給に奔走し、焼け出されて着の身着のままの市民の冬着の心配をした。

 浜井さんが目をつけたのが被服支廠の疎開した軍服だった。現在は東広島市内となっている川上村の山林から苦労して運び出し、数万人分の被服一式が広島駅に届いたのは9月に入ってのことだった。

 

 新しい落葉のくっついた梱包の一部を荷ほどきしてみると、まっさらの夏服、冬服の上下、夏のオープンシャツ、冬の木綿のシャツや毛のシャツの上下、軍靴、中には裏に毛皮のついた防寒用の被服などが出てきた。

 日をついで駅の到着荷物は山積みされていく。私はそれを見てうれしかった。軍服だが、これで着たきり雀の市民たちに、新しい一張羅が着せられる。(浜井信三『原爆市長 復刻版』シフトプロジェクト2011)