松尾公三さんは被爆当時26歳。医大を卒業後病院に勤務していたが、1945年1月に召集されて広島城本丸跡の東隣にあった中国軍管区第一補充隊(通称「二部隊」)で訓練を受けていた。
8月6日の朝、松尾さんらが兵舎の前で整列していた時、突然閃光が走った。首と手に燃えるような熱さを感じたが、爆風で10m飛ばされたことは記憶にない。爆心地からの距離は約1000m。気がつくとカーキ色の上衣が焼けて煙が出ていた。しかし松尾さんはまだ運が良かったほうだ。上半身裸で原爆の熱線を浴びた者は首から腰まで大火傷で皮膚が腰のところでペロリと垂れ下がっていた。
上半身裸だったのは暑かったからだけではないようだ。
新しく支給された軍服は、日清日露戦争時代のものではないだろうが、相当古いものに相違ない。軍服の色も赤味がかったカーキ色、開襟えりでなく詰めえりの上衣を着せられた。昭和時代のでなくおそらく、大正末期のしろものだろう。
五月ごろになると、営内にてじゅばんなしの裸でよし、営内靴なしのハダシ通行よし、ということになった。あるときは、今まで支給されていた軍服・肌着の中の程度のよいものが回収されたこともある。(松尾公三「爪跡」『広島原爆戦災誌』)
戦争末期には兵士の装備品の補給が滞り、お古を大事に使わなければならなかったということだ。井伏鱒二の小説『黒い雨』には取り上げられていないが、もとになった重松静馬さんの『重松日記』の中で紹介してある岩竹博さんの手記にも軍服・軍靴のことが書いてある。1945年6月、二部隊に入隊したときのことだ。
其の日の内に私服を預け、ぶかぶかの古い軍服と破れかけた大きな靴を倉庫から支給され、珍無類の兵隊さんが出来上った。三好君と互いに向き合って、営門をくぐって以来始めて吹き出した笑い顔が浮んだ。(岩竹博「広島被爆軍医予備員の記録」重松静馬『重松日記』筑摩書房2001)
破れかけた軍靴を履くということがどんなに困ったことか。1944年、中国戦線にあった歩兵第139連隊の戦記で知ることができる。
雨のために凍死するものが続出した。軍靴の底が泥と水のために糸が切れてすっぽり抜けてしまい、はきかえた予備の新しい地下足袋もたちまち泥にすわれて底が抜けてしまった。そのために、はだしで歩いていた兵隊がやられてしまったのである…(吉田裕『日本軍兵士』中公新書2017)
糸が切れた原因は、丈夫な亜麻を原料とするべきところを品不足で粗悪な人造繊維であるスフを混合したためだという。
日本が追い詰められて生産も輸送も滞るようになると、しわよせは国民と末端の兵士に行った。軍服にしても、中国戦線では1944年8月になると「内地よりの被服の到着は皆無」という状況だったという。
しかし被服支廠のある広島で「大正末期のしろもの」らしき軍服を倉庫から出したり、「営内にてじゅばんなしの裸でよし、営内靴なしのハダシ通行よし」と下着や靴の節約を励行したりするのも情けない話だ。工場や製品の疎開が優先で、しかも各地にバラバラに疎開させたためだろうか。また、兵隊はどうせすぐに体当たりで死んでいくのだからという人命軽視があったのかもしれない。