被服支廠は何を語る7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

奥が10番、右が手前から13番、12番、11番倉庫

 1945年6月中旬、被服支廠では木造建物だった支廠長室や事務室が正門の傍にある鉄筋コンクリートの13番倉庫に移った。その頃には大量の原材料や完成品の疎開もほぼ完了したようで、次は空襲による延焼を防ぐため倉庫も事務所も空いた木造建物は次々と取り壊されていった。

 

 3階建の大形倉庫では、屑物を入れる9番倉庫と衛生用品、特殊被服を格納していた13番倉庫が残るのみであとは空になり、木造倉庫は延焼防止のために2番から8番まで偶数番が取り壊された。

 倉庫は10番から13番までがレンガ造であり、13番の北が西向きの正門になる。(森武德「被服廠での生活」『廣島高等師範学校附属中学校東組記念誌』2004 旧被服支廠の保全を願う懇談会編『赤レンガ倉庫は語り継ぐ 旧広島陸軍被服支廠被爆証言集』2020より)

 

 この建物取り壊しに駆り出された陸軍部隊に「特設陸上勤務第103中隊」がある。「本土決戦」に備え、広島の兵器補給廠・糧秣支廠・被服支廠や県内各地の陸軍倉庫を管轄する広島陸軍輸送統制部の配下にあって、地下倉庫にするトンネルを掘るのが主な任務だったようだ。ただし、いざ「本土決戦」となれば、爆弾を抱えてアメリカ軍の戦車に突進することを強要されたはずだ。部隊は1944年12月に創設され、隊員の4割を朝鮮で徴兵された青年たちが占めていた。

 特設陸上勤務第103中隊は7月30日まで県西部の地御前(じごぜん)でトンネルを掘り、31日から被服支廠で木造倉庫2棟の取り壊し作業に入った。8月6日、原爆がさく裂した時は宇品の海岸で待機中だったので大きな被害はなかったと思われるが、すぐに市内の救護活動を命じられ、14日まで続いた。その間、強い残留放射線を浴びたのは間違いない。しかし、韓国に帰った元兵士のうち5人が渡日して治療を受け、被爆者健康手帳を取得することができたのは1991年になってのことだった。(広島の強制連行を調査する会編『地下壕に埋もれた朝鮮人強制連行』明石書店1992)

 被服支廠は事務部門、それに倉庫関係部門を少しだけ残して8月6日を迎えることとなった。大きな倉庫は13棟のうち6棟が取り壊され、残された倉庫も中はほとんど空っぽ。原爆で破壊される前から広島陸軍被服支廠は「半身不随」に陥っていたと言えるのではなかろうか。

 被服支廠に製品を納めていた実家の原製作所をモデルに書かれた原民喜の「壊滅の序曲」にはこう記されている。

 

 森製作所の工場疎開はのろのろと行はれてゐた。ミシンの取はづしは出来てゐても、馬車の割当が廻つて来るのが容易でなかつた。馬車がやつて来た朝は、みんな運搬に急がしく、順一はとくに活気づいた。ある時、座敷に敷かれてゐた畳がそつくり、この馬車で運ばれて行つた。畳の剥がれた座敷は、坐板だけで広々とし、ソファが一脚ぽつんと置かれてゐた。かうなると、いよいよこの家も最後が近いやうな気がしたが、正三は縁側に佇んで、よく庭の隅の白い花を眺めた。それは梅雨頃から咲きはじめて、一つが朽ちかかる頃には一つが咲き、今も六弁の、ひつそりとした姿を湛へてゐるのだつた。(原民喜「壊滅の序曲」1949)

 

 「いよいよこの家も最後が近い」と感じた時、それでも庭の片隅にひっそりと咲くクチナシの花に、原民喜は何を思ったのだろうか。