人類の自殺32 「黒い雨」に打たれて3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 爆心地から北西に約20km。現在の広島市佐伯区湯来(ゆき)町で当時国民学校1年生だった高野正明さんは「黒い雨」を浴びた。教室で朝礼をしている最中に突然強烈な光が差し込み、しばらくして爆音が響いた。子どもたちはみなすぐ下校することになったが、家に帰る途中で「黒い雨」が降り出した。

 高野さんは「黒い雨」を浴びた次の日から下痢や発熱、さらに歯茎からの出血、貧血やめまい、脱毛など、まさに放射線特有の急性症状が現れた。

 

 現在は右尿管癌、慢性腎臓病や白内障、脊柱管狭窄症を患っています。「黒い雨」を浴びたことに加え、毎日の飲料水や生活用水は谷水を使っていたので、「黒い雨」による放射性微粒子を身体の中に取り込んで被曝したのは間違いないと思っています。(高野正明「意見陳述書」2020.11.18)

 

 戦後10年たって生まれた私でも、子どもの頃は飲み水にも煮炊きにも、また風呂の水にも、山から流れ出る水を使っていた。でも1945年8月6日、広島の山や谷は見渡す限り「黒い雨」が降り注いだのだ。

 国は長年、「大雨地域」とする長さ19km、幅11kmの楕円形のエリア内で「黒い雨」を浴びた人のみ、被爆者に認定できる制度を設けていた。そのエリア外で「黒い雨」による健康被害を訴え続けてきた高野さんたちは、国に被爆者と認定するよう求めて2015年に提訴に踏み切った。

 2002年から広島市西部の五日市で「黒い雨被爆者」救済の運動を続けてきた高東征二さんは、広島地裁での証人尋問でこう訴えた。

 

 「病気だらけの人生でお金に困り、多くの人が死にました。全ての『黒い雨被爆者』の声を代弁するため、ここに立っています」(小山美砂『「黒い雨」訴訟』集英社新書2022)

 

 高東さんと高校が同級だった小川泰子さんは4歳の時、「黒い雨」で着ていた服に黒いシミができたことを憶えている。高校を出て就職した頃から倦怠感がひどくなった。最初に診断が出たのは慢性肝炎。それから立て続けに肝硬変、胃潰瘍。朝起きるのもままならなくなり、治療費の捻出で生活は苦しくなった。

 今は安芸太田町の一部となっている安野村に生まれ育った貞金末乃さんは、母、二人の兄とともに「黒い雨」を浴びた。兄の一人は「あの雨は、シャワーのようで気持ち良かったね」と記憶を呼び起こす。温かい雨だったのだ。しかし、その兄と末乃さんはすぐに原因不明の高熱と鼻血に苦しむことになる。もっと大変だったのは母親で、黒ずんでレバーのようになった血を洗面器にいっぱい吐いた。同居していた家族10人のうち半数が後年、がんで死んだ。

 けれど末乃さんは「黒い雨」を浴びた者への差別と偏見が怖くてずっと口をつぐんでいた。でも、2011年の福島第一原発の事故をテレビで見た時、「被ばくの恐ろしさを、伝えていかんと」という気持ちになったのだった。(『「黒い雨」訴訟』)

 どうして自分たちはいくつもの病気に苦しまなければならないのか、どうして身の回りで何人もの人がわけのわからない病気で死んでいくのか。高東征二さん、小川泰子さんたちは、それは「黒い雨」のせいだとしか考えられなかった。