人類の自殺31 「黒い雨」に打たれて2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 8月19日から25日まで本川国民学校で救護活動にあたった三次高等女学校の大江賀美子さんたちの場合、裁判記録では、「原告大江賀美子は被爆者と一緒にむしろの上に寝泊りし、食事は乾パン、電車通りを寺町側に渡ったところの壊れた水道から出ている水を飲んだり、その水で体を拭いたりした」とある。(高橋博子「原爆投下一分後 消された残留放射線の影響」『封印されたヒロシマ・ナガサキ』凱風社2012)

 食べ物は乾パン、飲み水は水道水だから、これで放射性物質を体内に取り込む可能性は少ないだろう。とすれば、「毎日寝る暇もないくらい、ほこりまみれになって働きました」(「中国新聞」2006.8.2)と語られているところから、そのほこりに混じった放射性物質を吸い込んだのではなかろうか。

 そのほこりは、「ひからびた顔と両腕には汗と土ぼこりの結晶がへばりついて、手を当てるとザラザラと落ちる」(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)とあるように、被爆者の皮膚や髪の毛、服にこびりついた土ぼこりに違いない。

 土ぼこりは、それ自体の誘導放射線はもう弱くなっていたとしても、「黒い雨」に含まれるウラン235やセシウム137が混じっていればかなり危険だ。救護所という閉ざされた場所で多くの被爆者と一週間ずっと一緒にいれば、大江さんたちがその危険な土ぼこりを吸い込んだ可能性は十分にあるのではなかろうか。

 それに対して、郊外の「黒い雨」が降った地域にいた人たちは、水や食べ物を通しての内部被曝の可能性が高くなる。そういえば、私の父も「黒い雨」に濡れていた。

 

 打越の方であったろうか、ポッポッと雨が降りはじめ、やがて強くなった、夕立だろう涼しくなるぞ、と濡れて歩いたことも、「黒い雨」と問題になっている今から考えると、ぞっとする思い出である。(精舎法雄「火焔 私の原爆体験記」1990)

 

 広島管区気象台の宇田道隆さんたちが1945年の11月末までにまとめた「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」(日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編 『原子爆弾災害調査報告書』 日本学術振興会 1953 )には116人の証言が掲載されている。

 証言によると、広島市の西北で「黒い雨」が長時間激しく降り川の水が真っ黒になったという。爆心地から2.5kmの己斐ではイカ墨のような色の雨がザーザーと1時間も降って「池や田の鯉全滅」。そこから山を越えた現在の沼田町あたりでは「大粒の雨、大雷雨、谷川え轟々真黒い水が流れて」川魚がかなり死んだとのこと。

 また沼田町の南西にある五日市町石内では「芋の葉の上に真黒いコールタールを流したような点々が残った。黒雨のかかった草を喰わした牛は下痢した」とある。

 自分の子どもの脱毛の原因が「黒い雨」から出る放射線だと知った宇田道隆さんは次のようにまとめている。

 

 この雨水は黒色の泥雨を呈したばかりでなく、その泥塵が強烈な放射能を呈し人体に脱毛、下痢等の毒性生理作用を示し、魚類の斃死浮上其他の現象をも現わした。そしてその後も長く(2、3ヶ月も)広島西部地区の土地に高放射能性をとゞめる重要原因をなした。(「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」)

 

 では、広島市郊外での「黒い雨」の人体への影響についてどんな証言があるだろうか。