人類の自殺30 「黒い雨」に打たれて1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 2009年3月25日、広島で救護にあたった人たちが自分たちの被爆者としての認定を求めた裁判で、広島地裁は次のような判断を示した。

 

 「救護所等に立ち入らなかった者に比して、有意に、原爆投下を契機として生じた放射性物質を少量であっても体内に取り込めば、(中略)内部被曝特有の集中的かつ持続的な電離作用が働くことにより、発がん等遺伝子の突然変異に起因する身体影響を生じるおそれが高くなることは否定しがたい」

 

 このように内部被曝の特徴や危険性が認知されることで、より多くの被爆者の救済につながった。また、核兵器の非人道性をより明確にし世界に訴えることにもつながっただろう。

 それにしても、放射性物質はどうやって体内に入ったのだろうか。もちろん想像するしかない。呼吸、水、食物、それぞれどんな可能性があるか考えてみる。

 角清子さんたち陸軍兵器補給廠の看護婦は8月6日、飲まず食わずで看護にあたったところ、その日の夜に下痢をした。水も食べ物も関係ない。

 市内中心部で救護活動をした陸軍船舶練習部第十教育隊の場合、7日ごろから下痢が始まった。斉藤義雄隊長の証言がある。普通の食あたりではなかった。

 

 私をはじめ、出動者の多数の者が二日目ごろから下痢を始めた。人により程度の差はあったが、その後一カ月も続いたものや、復員後も下痢を続けた者もあった。私も胃袋がどうにかなったのではあるまいかと心配したものである。(「被爆者救護活動の手記集」『広島原爆戦災誌』)

 

 中には下痢だけでなく頭痛やめまい、熱を出す者もおり、そしてほとんどの隊員が白血球数3000以下になった。そんな隊員の食事はというと、

 

 練習本部のトラックが砂塵をあげて疾走して来た。待望の飯運搬車だ。一同の顔がおのずからほころぶ。我々炊事当番は早速飯桶を受領して、ニギリメシを作る。分配終るや首を長くして待っていた一同、むさぼるようにかぶりついた。(「被爆者救護活動の手記集」)

 

 隊員の飯は爆心地から離れた宇品で炊いて運んでくるので放射能の心配はなさそうだ。ただし、「ニギリメシを作る」時にきちんと手を洗っていたとは思えないが。

 水はどうかというと、第十教育隊には飯と一緒に水ではなく湯を運んだようだ。しかし炎天下の作業だから水筒の湯だけでは足りなくなる。

 

 幸いにして広島は水が多くあり、至る所に水道管が破裂してふきだしている所が多かったので我々ものどが乾いたとき、しばしば飲んだ。(「被爆者救護活動の手記集」)

 

 広島の浄水場は爆心地から北に2.5kmの牛田にあった。

 

 非番の掘野さんは広島駅近くで被爆し、やけどを負ったまま浄水場に駆け付け復旧作業にあたった。水道局によると、結局、この日は予備のディーゼル系ポンプ3台を動かし、夕方までに1日4万2千立方メートルの送水ができるようになった。当時の1日の給水量の約4割だ。その間も、高台にある配水池の水は自然流下で市内に供給されたため、あの日も広島の水道は断水しなかった。(中国新聞「8.6探検隊」)

 

 たとえ浄水場に「黒い雨」の泥が少々流れ込んだとしても、浄水機能はすぐに復旧したので水道水の放射能はそれほど心配することはなかろう。とすれば、第十教育隊の場合も、放射性物質は呼吸によって体内に取り込まれた可能性が高いということになる。