人類の自殺20 隠れた放射線7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 爆心地からかなり離れていても、原爆のさく裂から時間がたっていても、被爆者の救護にあたった人たちの中に放射線障害と見られる症状が現れたのはなぜか。その原因として考えられているのが「内部被曝」だ。放射性物質が体内に取り込まれ、その放射線がごく狭い範囲で体内の組織にあたったら、たとえ低線量であっても深刻な影響を与えるというものだ。

 1987年、NHKの原爆プロジェクトチームは広島の残留放射線の調査に乗り出し、特にそれまでほとんど注目されてこなかった「内部被曝」の実態解明に取り組んだ。きっかけは前年に起きたチェルノブイリ(今はウクライナ語でチョルノービリ)原発事故だった。

 1986年4月26日午前1時23分、ベラルーシとの国境に近いウクライナ北部にあるチェルノブイリ原子力発電所で原子炉が爆発し大火災が起きた。膨大な量の放射性物質がウクライナ、ベラルーシ、ロシア、さらにヨーロッパ各地にも降り注ぎ、日本でも事故から1週間後に雨からヨウ素131、セシウム137などが検出された。

 当時のソ連当局の発表では事故で死んだ人は31人。原発職員の他に消火活動にあたった消防士6人が含まれる。また被曝した消防士の治療にあたった医師も一人亡くなった。アメリカから医師が駆けつけて13人に骨髄移植手術をしたが、その甲斐なく手術を受けた全員が死亡している。5月14日に当時のゴルバチョフ書記長は約300人が入院したと演説し、11月になって急性放射線障害は237人と発表された。

 発電所に隣接するプリピャチ市で市民45,000人の避難が始まったのは事故翌日の午後2時。しかし原発から半径30km圏内で暮らす9万人もの人たちは何も知らされないまま、強制避難措置が決定されたのは5月2日だった。避難はそれから1週間かかった。

 ソ連崩壊後の1992年になって明らかになったソ連共産党の秘密議事録には、30km圏内の住民の避難がほぼ終わった5月12日に「入院中1万198人、345人に放射線障害の症状、うち子ども35人」とあった。しかしソ連政府は表向き、住民の放射線被害を認めることはなかった。(今中哲二他編『「チェルノブイリ」を見つめなおす 20年後のメッセージ』原子力資料情報室2006)

 1989年に中国新聞の取材班がチェルノブイリに入って聞き取り調査をしている。ワシリー・ダビィディエンコさんは発電所の消火活動にあたった消防士の一人だ。その後下痢の症状が出て、検査の結果1シーベルト被曝していることがわかった。医師は「問題は何一つない」と言うのだが、事故直後に同僚が1週間で6人も死んだショックは消えない。

 

 あれから月日もたって「ひょっとしたら自分も」という不安は少しは薄らいだ。「でも、こうして検査に来ると、またあの地獄のような光景を思い出すんだよ」と言って彼は、矢継ぎ早に質問を始めた。 「広島じゃどうなんだい? 放射能は土の中にまだ残ってるのか? がんは多いのか? 子供は問題ないのか?」

 その口ぶりは、検査のたびに「大丈夫」「問題ない」を繰り返し聞かされていることへのいらだちだった。(中国新聞「ヒバクシャ」取材班『世界のヒバクシャ』講談社1991)