人類の自殺19 隠れた放射線6 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 角(かど)清子さんは当時20歳で、爆心地から南東に約2.8km離れた広島陸軍兵器補給廠の診療所で働く看護婦だった。

 8月6日の朝、角さんが便所の建物から出たところで原爆の閃光が走った。気がつくと肩から下は大きな材木がのしかかり、たくさんの釘が体に刺さって血だらけになったが、なんとか抜け出して、押し寄せてきた負傷者の看護にあたった。最初の3、4日は食事も取れないほどの忙しさだった。

 6日夜から角さんたち看護婦の体に異変が現れた。

 

 八月六日の夜から腹痛と激しい下痢に襲われました。看護で疲れており、すぐに寝入ってしまうのですが、翌日、起きてみると背中の辺りがぬれているようなので汗だろうかと思って見てみると、寝ている間に下痢をしていたのです。人に知れると恥ずかしいので、川で洗っていると、同僚の看護婦たちも同じように洗っていました。こんな症状が三日くらい続きました。(角清子「戦争がもたらすもの」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 下痢だけではない。被爆から1か月後には体に斑点が出た。爆心地から2.8kmも離れていれば初期放射線による被曝の影響はほとんどないとされているのだが。

 髙松勝さんは被爆当時17歳。広島陸軍兵器補給廠の工員だった。ピカッと光るのを見てすぐに防空壕に駆け込んだので、けがはなかった。すぐに潰れた木造建物の下から同僚を救い出そうとしたが、ほとんどが助からなかったという。

 兵器補給廠のレンガ造りの倉庫には逃げてきた負傷者が収容されたが、水をあげるとすぐに死んでしまうことが多かった。亡くなった人をトラックに積み込むのが高松さんの仕事になった。

 

 手袋が無いので素手で運びました。皮膚がやけどでズルズルになっていて、体を持ち上げようとすると皮がズルーッとむけます。そのときの臭いがきつく、ご飯を食べるときもその臭いが手に残っているようで鼻につき、手に紙を巻いて食べたりしました。(髙松勝「私の被爆体験と証言活動」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 街中でも遺体を収容する作業にあたり、元安川の、今はとうろう流しをする場所で死んだ人が川を流れているのを目の当たりにした。 

 県東部の実家に帰ったのは8月下旬。帰ってから二週間ぐらい意識不明になった。高熱が出て、うわ言を言い、ご飯も食べられなかった。けれどどうしてそんな症状が出たのか、当時はわかるはずもなかった。

 自分は放射線にやられたのではないかと勘づいた人も中にはいた。当時岡山医科大学(現 岡山大学)の学生だった杉原芳夫さんは9月中旬から2週間ほど、広島逓信病院で遺体解剖の手伝いや被爆者の血液検査をした。

 

 台風で不通になった鉄道線路を、たくさんの復員兵と一絡に歩きながら、九月二十九日の午後、やっと岡山に帰ったのですが、その夜、ひどい全身倦怠に続いて四十一度の高熱と、経験したこともない激しい咽頭痛に襲われ、文字どおり輾転反側して一夜を明かしました。その異常な苦しさに、私はピカドンにやられたと直感しました。広島での被爆者調査カードには、咽頭痛の有無が放射線障害の重要な一指標になっていたのですから。(杉原芳夫「病理学者の怒り」山代巴編『この世界の片隅で』岩波新書)