人類の自殺21 隠れた放射線8 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 チョルノービリ原発事故の被害の実態は長らく隠蔽され、人々は放射線の恐怖にただ怯えるしかなかった。放射線が人体にどのような影響を及ぼすのか、それを明らかにして世界の被曝者の救済に少しでも役立てることは、広島・長崎にとって、とても大切な仕事だったと言えよう。

 NHKの原爆プロジェクトチームが残留放射線の影響を調べるにあたって注目したのは、「賀北部隊」と言われた救援部隊だった。「賀北部隊」の正式名称は広島地区第14特設警備隊。その小隊長の一人だった柏尾誠さんの手記がある。

 

 昭和二十年八月六日、原爆(当時は特殊爆弾と称した。)が広島市に投下され、間もなく広島連隊区司令部の下令により、賀北部隊が召集編成された。

 部隊は、賀茂郡北部地区(西条、高屋、八本松、志和の各町村)に在郷する陸軍予後備兵役の軍人の一部に召集令が発せられ編成された陸軍部隊であった。(柏尾誠「部隊出動」東広島郷土史研究会編『被爆四十周年賀茂台地の声』「被爆40周年賀茂台地の声」実行委員会1986)

 

 地区特設警備隊は本土決戦に備えて編成された臨時の軍隊だ。隊員は普段は仕事をしていて学生も多くもいた。正規部隊はアメリカ軍の上陸を阻止するために命を投げ出すはずだったから、万が一アメリカ軍が上陸してきたら誰が戦うのかと言えば男女老幼を問わない一般の国民(国民義勇兵)だった。大人も子どもも竹槍で立ち向かえというのだ。そしてその義勇兵を率いるのが地区特設警備隊と言うわけだ。

 しかし、広島県で組織された26の地区特設警備隊が実際にやったことといえば広島市内の建物疎開作業だった。8月6日に市内に出動していた地区特設警備隊は壊滅的な被害を受けている。

 現在の東広島市に置かれた広島地区第14特設警備隊、仮称「賀北部隊」は、8月7日に原爆で壊滅した広島市内に出動し13日まで市内中心部で救護や遺体の収容作業にあたった。出動した隊員は約250人。しかし被爆から40年もすぎると、農村地域といえども、隊員を探し出して一人ひとりの健康状態を確認するのは根気のいる作業だった。中隊長だった工月清さんが語る。

 

 (広島に入って)三日目ぐらいで倒れた人が、三人か四人おりましたですね。気分が悪くなり動けんようになりました。西条から連絡に来た人に連れて帰ってもらいました。私らが帰ってその年のうちに、三、四人死んだ人があるということを聞きましたが、それがその人たちだったかどうかは、はっきりしません。名前もわかりません。可哀相なことをしたと思いましたね。みな若い人ですからね。ここへきて原爆の後始末をせずにおれば、失う生命じゃなかったと思いますね。(NHK広島局原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ・残留放射能の四十二年 原爆救援隊の軌跡』日本放送出版協会1988)

 

 隊員名簿は戦争が終わるとすぐに焼却されている。隊長といえども隊員の名前と顔が一致しないうちに部隊は解散になった。そして、放射線とか原爆症という言葉も知らないままに亡くなった人たちは、いつしか記憶の底に埋もれてしまうのだ。