市橋和子が高校に入学したのは1960年。学校に通う路面電車の中、小学校のときに同じクラスだった久松圭子と久しぶりに会った。圭子は中学から私立の学校に行き、今は新聞部に入って安保問題に取り組んでいるという。
6月になって久松圭子が「お好み焼いちはし」にやってきた。和子が入部した部活の先輩畠山が圭子にラブレターを送ってきたので、和子に相談に乗ってもらいたかったのだ。男子から初めて手紙をもらって胸がドキドキするという。
けれど、安保の話になると圭子の口調が変わった。
「…安保条約は絶対阻止せんといけんと思います。新しい条約を結べば、自衛隊もアメリカの戦略指揮下にはいり、米ソの戦争に巻きこまれる危険が増大するんです。日本は独立国だし、憲法のもとに中立平和の道を歩むべきなんです。それが国民の総意なんです。岸内閣はそれを無視して衆議院で強行採決したんです」(那須正幹『ヒロシマ1960 様々な予感』ポプラ文庫2015)
そんな圭子だから喫茶店で初デートをした時、畠山が「政治のことはあんまり興味ない」と言うのにがっかりし、すぐに付き合う気が失せてしまったのだった。
まじめ一直線の圭子。ところが東京の大学に入ると、和子には圭子がまるで別人になったように思えた。酒とタバコと、それにセックスフレンドだという彼氏。大学では社会科学研究会に入って安保後の活動を模索しているという。高校の新聞部での取り組みは「まるでおままごと」だったとか。
しかし「新安保条約」が国会で自然承認となる前日の1960年6月18日に33万人のデモが国会を取り囲んだのがピークで、その後安保闘争は急速にフェイドアウトした。挫折感を感じる若者も多かったという。私はその頃まだ小さかったので、憶えているのは西田佐知子が歌う「アカシアの雨がやむとき」だけ。
久松圭子は大学を中退し、音信が途絶えた。思いっきり転んで、その後うまく立ち上がることができなかったということか。
1985年になって「お好み焼いちはし」がテレビで全国に紹介された。廃墟の広島から立ち上がり、親子3代で頑張ってお好み焼屋を続けてきたことが大きく取り上げられた。
圭子から電話がかかってきたのは、その日の夜遅く。東京で会ってから20年が過ぎていた。若い頃の情熱はとうの昔に失せてしまい、圭子の彼氏は今では地上げ屋の片棒を担ぐヤクザな仕事。そんな圭子が、「ぜんぜんかわっていない」和子をテレビで見て電話をかけてきたのだ。圭子は、テレビの向こうの和子から元気を分けてもらえたに違いない。
那須正幹さんはもう一人、どうしようもない人間を描く。和子の幼なじみのチカちゃん、千賀子の兄の英輔だ。グレてヤクザになり、親や千賀子を苦しめた。右翼に頼まれて広島の平和集会に殴り込みをかけたこともある。そしてヤクザの抗争で若くして死んだ。
そんな英輔も「お好み焼いちはし」では大人しく、周りの客に迷惑をかけることもなかった。和子にも子どもの頃と同じように接してくれた。
那須さんにとって、圭子も英輔も同じ広島に生まれた人間。みんな愛おしいのだ。そして、広島のお好み焼が一枚一枚心をこめて焼かれるように、広島の誰もが今日の一日、明日の一日を大切に生きていくことを那須さんは願った。それが那須正幹さんにとっての、「ヒロシマを生きる」ということだった。