那須正幹さんの遺言82 広島を生きる8 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島には、いろいろな人がいて、いろいろな形でヒロシマと関わっている。『ヒロシマ』三部作の著者那須正幹さんは、登場人物を「いい人」「悪い人」という単純な○✖️式には描かない。誰もが前を向こうとしては、時に臆病となり、人に優しくしたかと思えば、悪いこともしてしまう。主人公の靖子にしても大きな罪を犯したし、和子や志乃にしても、バカなことをしてしまったり、人を傷つけたりもした。でも、そんな人たちが、右往左往しながらも、ヒロシマを動かしてきたのだ。

 靖子のところにストックホルムアピールの署名用紙を持ってきた男は、己斐小学校に勤める国枝と名乗った。署名用紙には20人分の署名欄があったが、靖子は家族にも署名のことを話すことができず、自分と和子の名前だけを書いたのだった。

 

 おそるおそる紙の束をわたすと、国枝はおしいただくように両手で受けとった。

 「ありがとうございます。これで原子兵器の廃絶が実現できます」

 「ほんまでしょうか。わたしらが署名しただけで、ピカがなくなるんでしょうか」(那須正幹『ヒロシマ1949 歩き出した日』ポプラ文庫2015)

 

 国枝は、国際世論が高まれば核兵器をなくすことはできると熱く語った。その誠実さが靖子に伝わる。聞けば家族を原爆で亡くし今は40過ぎの独身だとか。

 娘の和子が己斐小学校に入学し、若い女性の望月先生が担任になった。国枝は5年生の担任だという。和子が幼馴染で1学年上のチカちゃんから余計な話を聞かされてきた。国枝先生と望月先生は相思相愛なのだと。

 

 「うちも国枝先生、好きなんじゃ」

 和子が靖子の耳にささやいた。

 「あの先生、うちらにもやさしいんじゃもの」

 「国枝先生は、やさしい先生なんじゃね」

 「チカちゃんのお兄ちゃんもいうとっちゃったよ。あの先生はひいきせんのんて」(『ヒロシマ1949 歩き出した日』)

 

 和子の言葉で、靖子は国枝に一層の親近感を感じたことだろう。それだけに、国枝先生と望月先生が仲良くお好み焼を食べにきた日には、靖子は思わずため息をついたのだった。

 それにしても、子どもから、あの先生はひいきをしないと言ってもらうとは大したものだ。どれだけの心配りが必要だろうか。

 教師の日頃の何気ない言動、しぐさに子どもたちは敏感だ。どうしても放っておけない子の面倒を見れば、そのことはすぐにクラスに知れ渡り、中にはヘソを曲げる子も出てくる。ひいきしているように見えたのかもしれない。

 でも、いつもうまくできる先生なんていないと思う。後に被爆教師の会を立ち上げた石田明さんは、1946年に広島市近郊にある国民学校の代用教員になった。その頃は猛烈なインフレと食糧危機の真っ只中。子どもたちは皆栄養失調で、そして弁当がよく盗まれた。石田さんの1947年1月18日の日記

 

 はげしい疲労を感ずる。

 子供と共に動くのが、時々億劫になる。

 苛々して子供をよく叱る。許せ!子供たち。目に見える現象に追われて精一杯だ。見えないところへ心が届かないのを知る。教育はそこにある筈だ。

 不勉強、無力、愚(おろか)者!

 お前に果たして教師の資格があるのか。

 このままでは、自分も子供もダメになる!(石田明『被爆教師』一ツ橋書房1976)

 

 この苦悩を抱えながらも、石田明さんは日々子どもたちと向き合うことをやめなかった。その頃、そんな先生がたくさんいた。