那須正幹さんの遺言81 広島を生きる7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

福屋デパート

 靖子たちは1950年の8月6日もお参りに出かけた。でも、この年は広島も日本も大変だった。

 第二次世界大戦後にアメリカとソ連の対立が激しくなり、朝鮮が南北に分断された。中国では1949年に社会主義の中華人民共和国が成立した。

 この状況を見てアメリカは日本の占領政策を大きく転換し、「極東の工場」「全体主義の防壁」にすると言い出した。経済政策では為替レートを1ドル360円に固定。アメリカは日本からいくらでも買いますよということだろう。1950年の朝鮮戦争では日本で物資を大量に調達した。政治では戦争指導者、旧軍人の公職追放を解除。こうなると日本の政界、財界のボス連中はこぞってアメリカになびいた。かつての「鬼畜米英」今いずこだ。

 その一方で、労働者の大量首切りに抵抗する労働組合と共産党は徹底的に弾圧された。広島では朝鮮戦争が始まると、市主催の平和祭も、さまざまな平和集会も全て禁止。「原爆反対」の「げ」の字も言えなくさせられた。新憲法で保障されたはずの自由も平和も、「絵に描いた餅」でしかなかった。

 しかし広島には戦争や原爆に反対の声をあげられないのは耐えられないという人たちが多かった。密かにゲリラ的な平和集会が計画された。

 1950年8月6日。靖子たちが白島でのお参りを済ませ、八丁堀交差点まで歩いてもどった時だった。

 

 ふいに舗道のあたりからどよめきが起こった。ふりかえった靖子の目に、福屋デパートの高いビルが見えた。デパートの前に大勢の群衆が集まり、口々になにか叫んでいる。と、デパートの屋上から、なにやら紙吹雪のようなものが舞いはじめた。と、今度は六階や五階の窓からも紙吹雪がまき散らされる。紙吹雪は風にあおられたちまち空中いっぱいに広がっていく。落ちてくるにしたがって、それが葉書よりも大きな紙切れだということがわかった。

 「うわあ、きれい……」

 和子が歓声をあげながら、舞い落ちてくる紙切れのほうに手をのばした。(那須正幹『ヒロシマ1949 歩き出した日』ポプラ文庫2015)

 

 その時、武装警官隊が一斉にデパートに突進した。この光景を峠三吉が詩に書いている。

 

 一斉に見上るデパートの

 五階の窓 六階の窓から

 ひらひら

 ひらひら

 夏雲をバックに

 蔭になり 陽に光り

 無数のビラが舞い

 あお向けた顔の上

 のばした手のなか

 飢えた心の底に

 ゆっくりと散りこむ

 

 誰かがひろった、

 腕が叩き落した、

 手が空中でつかんだ、

 眼が読んだ、

 労働者、商人、学生、娘

 近郷近在の老人、子供

 八月六日を命日にもつ全ヒロシマの

 市民群衆そして警官、

 押し合い 怒号

 とろうとする平和のビラ

 奪われまいとする反戦ビラ

 鋭いアピール!

 (峠三吉「一九五〇年の八月六日」部分『原爆詩集』)

 

 靖子の父庄助は、「おおかた、アカが騒いどるんじゃろう」とそっけなかった。母のマサは「なにもこの日に騒ぎを起こすこともあるまいに」とため息をついた。でも、靖子は手にしたビラをそっと自分の手提げカバンにしまいこんだ。

 後で恐る恐るカバンから取り出してみると、ビラには「ストックホルム・アピール」が印刷してあり、原爆を落とす国の政府は戦争犯罪者だと断言していた。

 靖子はその通りだと思った。このアピールに賛成の署名をしたい。でも、署名して警察に捕まったらどうしよう。それもまた恐ろしかった。