那須正幹さんの遺言80 広島を生きる6 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 那須正幹さんの『ヒロシマ めぐりくる夏』では、靖子と同じ長屋で原爆に遭った安岡美代が靖子の命日に線香をあげにきて、最近客が減っていることを気にする和子にこう話した。バブル景気の頃だ。

 

 …いまの景気は長つづきはせんと思うよ。いまにドカンと不景気がくるに違いない。ほいじゃけど、どがあに景気が悪うなっても、広島の人間は、お好み焼を食べんと、生きていけんようにできとるんよね。心配せんでも、そのうち、お客さんがもどってきてくれるよね」(那須正幹『ヒロシマ1977 めぐりくる夏』ポプラ文庫2015)

 

 お好み焼きは広島の街に根付き、広島になくてはならないものになっていると美代は言う。しかし一方、広島には暗い影も染みついていた。和子を励ました美代は、それからしばらくして、がんで亡くなった。原爆は、あれから何年経とうとも、生きている限り付いてまわるのだ。それと、どう向き合うのか。

 那須正幹さんの『ヒロシマ』三部作の中で、靖子たちは毎年8月6日のお参りを欠かさない。

 原爆がさく裂した時、靖子と夫の茂次、赤ん坊の和子は爆心地から1.2kmほど離れた上天満町の長屋にいた。『広島原爆戦災誌』によると、街は一瞬にして圧し潰され、家にいた人はその下敷きとなり、外にいた人は大火傷で皮膚がボロ切れのように垂れ下がったという。そしてすぐにあたりは火の海となった。

 広島の8月6日の朝は早い。靖子たちは6時前に家を出て己斐の電停に向かうのだが、路面電車が電停に停まるたびに花を持った人たちが何人も乗り込み、そして紙屋町の手前あたりから降り始める。その人たちはそれぞれ身内の亡くなった場所で花を手向け、線香に火をつけるのだ。

 靖子たちが最初に向かったのは妹夫婦が住んでいた東白島町。縮景園の北側にある。靖子の妹は春代といい、夫は広島城本丸跡の中国軍管区司令部に勤めていた。靖子の父庄助が被爆直後から必死で探しても、二人の骨は見つからなかった。

 今は草ぼうぼうの家の跡でお参りをする。線香と花を供えて念仏を唱え、瓶に入れて持ってきた水を地面に注いだ。母のマサが涙声で言う。「春代、さぞ、熱かったろうねえ」

 次に向かったのが上天満町だが、かつて靖子たちが暮らした長屋の跡に来てみると、いつの間にか新しい長屋が建っていた。人が住んでいる家の前で線香に火をつけるわけにはいかない。

 そばの天満川の土手を歩くと百日紅の赤い花が見えた。その花に靖子には見覚えがあった。おそらく、原爆の炎に焼かれて一度死んだはずの木が再び芽を出し、枝を伸ばしたに違いない。靖子は百日紅に向かって手を合わせた。百日紅は靖子であり、また和子のことでもあるのだろう。

 広島で生き残った人たちは、親しい人をそれぞれの場所で弔い、それぞれの場所で亡き人を偲んだ。考えてみれば、それが自然なことなのだ。でも、親しい人がどこで死んだのかわからないという人があまりにも多かった。それが原爆のすさまじさだ。

 1946年に中島本町の慈仙寺跡に戦災供養塔ができ、1952年には平和公園に「広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)」が建立されて多くの人が数珠を持って集まった。あの日親しい人が突然消えてしまい、誰もが心の拠り所を求めていたのだ。もっとも、春代と靖子の母マサにとっての8月6日は、死ぬまで白島と上天満町だったが。