那須正幹さんの『ヒロシマ』三部作の2番目、『ヒロシマ 様々な予感』は1960年から始まる。その頃、己斐の商店街にある靖子の「お好み焼いちはし」はそこそこ繁盛していたが、それでも靖子はお客さんに喜んでもらおうと努力を続けた。1961年の元旦、初詣で靖子の娘和子が幼馴染の千賀子と久しぶりに会った時のこと。
「そういやあ、こないだカズちゃんとこのお好み焼を食べたんよ。母ちゃんが買うてきてね。みんなで食べたんじゃけど、おいしかった。いま頃のお好み焼には、そばがはいっとるんじゃねえ」
「去年くらいから、そばやうどんをいれてくれいうお客がふえてね。ほいで、うちの店でも注文があったらいれるようにしたんよ。新天地の屋台なんかからはやりだしたみたいじゃねえ」(那須正幹『ヒロシマ1960 様々な予感』ポプラ文庫2015)
1970年代になってのことだが、私が高校生のころ土曜日は午前中授業があった。午後からは部活とかで残るので、昼は校門を出てすぐの所にあるお好み焼屋に行くことがよくあった。おばちゃん二人が切り盛りしていた。
注文は「ソバ入り」か「うどんにして」のどちらか。腹ペコの時は「ダブル」だ。要するに、ソバやうどんは、そのころ、お好み焼きのトッピングだったのだ。
私が通った店は、生地を丸く2枚焼き、それでキャベツやソバなどの具を挟んでいた。それが当たり前と思っていたら、本通りに、生地の上にキャベツやソバを重ねて焼いたら半分に折って出す店があった。ヘラで切りにくいので、なんでこんなことをするんだろうと思った記憶がある。最近、シャオヘイさんの『熱狂のお好み焼』(ザメディアビジョン2019)を読んで、その理由が分かった。
実は那須さんの『ヒロシマ 歩き出した日』にも書かれていたのだが、お好み焼きのルーツである「一銭洋食」は、生地を丸く焼いてネギなどを乗せ、それを二つ折りにして客に出していた。その伝統を受け継いでいたのだ。
『ヒロシマ』三部作の3番目、『ヒロシマ めぐりくる夏』には、小学校の先生になり、1977年に和子の娘志乃の担任になった千賀子が、和子の焼いたお好み焼きを食べる場面がある。
「へえ、お好み焼というたら、半分に折ってあるもんじゃと思うたけど、いま頃は丸いんかね」
先生が、鉄板の上におかれたお好み焼きをながめる。
「五、六年前までは、二つに折っとったんじゃけど、そばやうどんをいれるようになってから、やたら厚うなってきてねえ。新天地あたりの店が丸のままだすようになって、うちも折らずにだすようになったんよ。お客さんも、このほうが食べやすいいわれるしね」
「お好み焼きもだんだんかわっていくんじゃね」(那須正幹『ヒロシマ1977 めぐりくる夏』ポプラ文庫2015)
広島のお好み焼はずっと変わり続けてきた。靖子が始めたお好み焼きも、娘の和子が受け継いでさらに工夫して、そして孫の志乃に受け継がれていく。広島のお好み焼はこれからも変化し続けるだろう。でも、大切に守っていってほしいことがあると和子は志乃に言う。
「…だれが食べてもおいしいと思うようなお好み焼をつくることは大切なことよ。ほいで、いちど食べたら、また食べとうなるような、そがあなお好み焼がつくれたら、一人前じゃろうねえ」(『ヒロシマ めぐりくる夏』)