那須正幹さんの遺言3 西村繁男さん2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 今ある原爆供養塔は1955年8月に完成した2代目だが、1946年5月につくられた初代の「広島市戦災死没者供養塔」は今のより50m南にあった。原爆で焼失した慈仙寺の境内である。

 

 同市猿楽町、旅館業小田繁市さん(57)は、原爆のとし十月、慈仙寺鼻にバラックを建てた。「供養塔のある場所では、被爆直後、来る日も、来る日も、兵隊さんが、たくさんの死体を焼きました。男か女か、区別もつかない山のような死体でした」と死臭を思い起こす。(中国新聞社『炎の日から20年 広島の記録2』未来社1966)

 

 被爆から数日経つと、広島のあちらこちらで、生き残った人たちが焼け跡に散乱する骨を拾って供養する光景が見られた。その中の一人、僧侶の吉川元晴さんは翌年、焼け跡で共に死者の供養をした仲間とともに「戦災死没者供養会」を立ち上げた。市内外の至る所に仮埋葬されたり放置されている遺骨を一か所に集めて供養しようというのだ。広島市も協力して、5月に供養塔、7月にバラックの納骨堂ができた。(堀川惠子『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』文藝春秋2015)

 川本福一さんは産業奨励館(原爆ドーム)の北隣に住んでいたが、8月6日は早くから出かけていて助かった。しかし原爆で妻は行方知れず。家で焼け死んだ娘の骨は猛火でパウダーのようになっていた。(「中国新聞」1997.7.29)

 川本さんが焼け跡に家を再建したのはその年の10月。それから1年間、川本さんの日課は亡くなった人の供養だった。

 

 この間に私は、あたりに散乱しているお骨を整理して、砂を盛り山を作って、毎日線香を立てて懇ろにお守りをしていた。ところがどこでこれを聞かれたのか、西本願寺広島別院からそのお骨を取りに来られたのでお渡しした…(川本福一「私は被爆後数十日で、原爆焦土に住みついた。草木も生えて立派に成長している」亀田正士『ああ広島の原爆』私家版1965)

 

 『広島原爆戦災誌』によると、川本さんが拾い集めた遺骨は別院を通して納骨堂に納められたが、ドラム缶二本分もあったという。一人一人お名前がわかるといった状況ではない。お骨が何体分あったのかも確かめることはできなかっただろう。

 1955年には供養塔が建て替えられ、その地下に引き取り手のない被爆者の遺骨が納められた(インドに起源を持つ「塔」は本来お骨を納める施設である)。1969年出版の『原爆爆心地』には次のように記されている。

 

 …土まんじゅうの地下安置所には、一二万から一三万と推定される無縁仏の骨が、ひきとり手もないままに眠っている。このうち名前がわかっているものは二、三五五人。あとは、氏名も性別も、死んだ場所さえわからない状態になっている。(志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会1969)

 

 堀川惠子さんの『原爆供養塔』で、RCC中国放送のアナウンサー世良洋子さんが供養塔の地下に入った時のラジオ番組が紹介されている。

 

 ガタガタと音がして、職員が棚の一番下にある大箱のふたを開けたようだ。世良は許しを得て、そこにまとめて入れられている遺骨を両手にすくった。

 「まるで海の貝殻のよう……」

思わず息を呑む様子が伝わってくる。遺骨は、世良の指の間から、サラサラとこぼれ落ちた。(『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』)

 

 それは名前もわからない、人数も本当のところ確かめようがない、原爆で消し去られた人たちの遺骨だった。