那須正幹さんの遺言4 西村繁男さん3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原爆で家族親戚13人を亡くした佐伯敏子さんにとって唯一の救いは、その年夫が戦地から無事帰ってきたことだった。戦後は広島県西部の大竹で暮らし、1954年には3人目の子どもが生まれた。けれど敏子さんはその頃からガンなどいくつもの病に冒される。医者は夫に、敏子さんの命がそう長くはないことを告げた。

 1958年、佐伯さん一家は大竹から広島市に戻ることになった。けれど母も妹も近所の人たちもみんな原爆で死んで、広島に親しい人は一人もいない。夫の両親も行方知らずのままだ。

 ふと立ち寄った平和公園で原爆供養塔を知った。引き取り手のない数多くの人のお骨が納められているという。その中には見つけられなかった義父母の骨もあるだろうか。「人違いでも連れて逃げてえー」といって足をつかんで離さなかった女学生の骨も、己斐(こい)の国民学校で自分に踏みつけられて叫び声を上げた何人もの人たちの骨もあるのだろうか。

 己斐国民学校の教室、廊下を埋めた負傷者の顔はみんなひどい火傷で誰が誰だかわからない。家族を探す敏子さんは声だけが頼りだと、やってはいけないことをしてしまった。

 

 転がっとる人間の足を、靴をはいたまんま思いきりギューツと踏みつけるの。イタイッという声が女の声なら、母さんや兄嫁、おばさん、妹、従姉妹や姪の名前も叫ばなきゃ。(中略)踏んづけたり、蹴ちらしたり、全部調べてみたが、どこにも肉親はいなかった。(佐伯敏子「ヒロシマに歳はないんよ」ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会『証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん』2004)

 

 敏子さんは草ぼうぼうの供養塔を前にして、もうそんなに長くはない命、ここで草むしりをしたり水を供えたりして、亡くなった人たちに謝りながら生きていくことに心を決めた。

 

 あの炎や煙の中で、やってはいけないことをやった人間は、命が助かったからといって喜べる者はどこにもないの。やったことを毎日毎日反省しながら、死者に謝りながら、自分の悪いところをさらけ出しながら生きていくしかないの…。(「ヒロシマに歳はないんよ」)

 

 1969年、佐伯敏子さんが供養塔の掃除を始めて10年が過ぎた頃、偶然にもその供養塔に夫の母親の遺骨が納められていることを知った。翌年には夫の父親の遺骨も見つかった。うれしかった。

 けれど供養塔の地下には名前がわかっているのに引き取り手のない遺骨がまだ2000体以上残されている。この人たちも家に帰りたいに違いない。家族は待ち焦がれているに違いない。敏子さんは遺族を探してお骨を送り届けることを始めた。

 1976年までに苦労して遺族のもとに返すことのできたお骨はやっと10体だったが、でも多くの人たちとの大切な出会いがあって佐伯敏子さんを前に向かせてくれた。

 佐伯敏子さんはヒロシマを訪ねてくる子どもたちに語りかける。

 

 広島という街は不思議な街です。知ろうと思わなければ何も伝わるものはありません。知ろうと思う心と、伝えようと思う心があるならば、資料館の中で見ること、受けとめること以上の出会いができるのが広島なんです。(佐伯敏子「『原爆犠牲ヒロシマの碑』碑前祭での生徒への呼びかけ」ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会『証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん』2004)