那須正幹さんの遺言2 西村繁男さん1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

原爆供養塔(撮影2017年8月6日)

 『絵で読む広島の原爆』が出版されたのは1995年3月だが、出来上がるのに6年かかった。きっかけは1980年ごろ、広島に来る修学旅行生の世話をしている人から事前学習をするのによい本がないのでぜひ書いてほしいと頼まれたことだった。那須さんはかなり悩まれたようだ。

 

 原爆を描いた児童書は、これまでにも数多く出版されていますが、そのほとんどが個人の被爆体験をもとにしたもので、市内全体の被爆状況や、原爆の原理、開発や投下に至る歴史的経緯、あるいは被爆以後までを網羅するには、限界があるように思いました。(那須正幹「あとがき」『絵で読む広島の原爆』福音館書店1995)

 

 原爆の全体像をどうやったら描けるのか。これだと思ったのは、1989年に『ぼくらの地図旅行』という科学絵本を西村繁男さんと一緒に作った時のこと。その絵本で、西村さんは空から街を見たような絵を描いていた。この手法なら広島の原爆の全体像が客観的に表現できると那須さんは確信した。

 しかし『絵で読む広島の原爆』での西村さんのアプローチは少し違っていた。西村さんは、徹底的に「広島に肉薄」していこうとしたのだった。

 西村さんは大学時代にイラストレーターを志し、大学卒業後はベトナムの子どもたちを支援する会に参加して、その中で反戦絵本もつくった。そうした活動の中で広島の被爆者佐伯敏子さんを知り、その被爆体験記と佐伯さんの描かれた絵で本をつくろうとした。けれど佐伯敏子さんは本づくりを断ってきた。

 佐伯敏子さんは1945年末までだけで13人の家族や親戚の命を原爆に奪われている。敏子さん自身も「原爆症」に倒れ、一時は死を覚悟した。その後も何度となく重い病に冒された。敏子さんが書いた手記は遺書とも言うべきものだったのだ。また戦後30年が過ぎた頃に佐伯さんは何枚も「原爆の絵」を描いているが、その中の一枚には次の言葉が書き添えてある。

 

 午後三時前後の土橋附近の死体は大勢あり、傷ついて歩けぬ学生さん達もとってもたくさんおられました。その中の妹によくにてる人を起しだきて名前を呼べど人違いでした。炎においたてられ逃げようとすれば、声のなかった人が足にすがりつきて「人違いでも連れて逃げてえー。」といって足をはなしてくれない。私は夢中で子供がいるから許してー。と叫び無理やり逃げねば焼死んでしまう。(佐伯敏子「助けを求める負傷者たち」広島平和記念資料館「市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)」)

 

 西村繁男さんは後になって気がついた。西村さんは本を作るのに広島に足を運ぼうとはしなかった。広島のことを何も知ろうとしないで本を作ろうとしたのだ。それでは敏子さんの心の苦しみ痛みが伝わるはずもなかった。

 気づかせてくれたのは敏子さんだった。敏子さんから届いた手紙には、「ヒロシマのことをみんなが知ろうとするのなら、いくらでもお手伝いをします」とあった。

 1976年、佐伯敏子さんが広島で西村さんたちを案内した場所は、原爆供養塔の地下室だった。(西村繁男「『絵で読む広島の原爆』と佐伯敏子さん」ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会『証言 町と人の記憶』2010