那須正幹さんの遺言1 被爆 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

JR西広島駅にある「ズッコケ三人組」の像

 ある人から、原爆の本を若い友人にプレゼントしたいんだけどお薦めはありますかと聞かれた。そのとき頭に浮かんだのが、那須正幹さんの文、西村繁男さんの絵による『絵で読む広島の原爆』だった。平和や原爆の良い本はたくさんあるが、この本を薦める個人的な理由がふたつあった。そのことは後でおいおいと。

 「ズッコケ三人組」シリーズで知られる作家の那須正幹(なす まさもと)さんが亡くなられたのは2021年7月22日。79歳だった。亡くなる直前、『絵で読む広島の原爆』について次のように書き残されている。

 

 那須さんは6月、私立の東京子ども図書館が発行する機関誌「こどもとしょかん」(170号)に「絵で読む広島の原爆」についての文章を寄せていた。発行されたのは、亡くなる2日前の7月20日だった。

 《私も八十歳間近となり、あと何年生きられるかわからない。被爆を体験している世代としては、この絵本が、あの日のことを語り伝えるよすがとなれば望外の喜びである》

 続く最後の一文はこう書かれていた。

 《私にとって、この本は遺書のようなものなのだ》(「朝日新聞」2021.12.3)

 

 那須さんは1942年、広島市の庚午北町(現 西区己斐本町)に生まれた。広電の西広島駅から国道を数百メートル南に行ったあたりで、爆心地からの距離は約2.7km。当時3歳の那須さんや母親は家の陰になって原爆の閃光を免れたが、家の外で母親と話していた人は半身大火傷を負っている。そして爆風で屋根が吹き飛んだので、その後の黒い大雨で家中が水浸しになった。

 けれど那須さんが憶えているのは、押し入れで雨宿りをしながら桃太郎の本を見ていたことだけ。実は、幼心にも忘れてしまいたいことがあったようだ。

 

 後からおふくろが言いよったけど「正ちゃんは、何か大きい音がしたら、飛んで帰って押し入れに隠れよった」と。僕自身は記憶にないけど、一種のトラウマかもしれんね。(「中国新聞」2015.7.16)

 

 しかし、やがて那須さんはいやでも原爆と向き合わなければならなくなる。

 

 中学2年の秋、学校で被爆者の健康調査を受けた。

 僕は、赤血球が足りんかった。学校の先生に引率されて、広島赤十字病院(現中区)で精密検査を受けた。実は、そのひと月ほど前、林恵美子さんという、中1の時のクラスメートが、急性骨髄性白血病で亡くなった。「それも原爆のせいじゃ」と聞いていた。ほんと、人ごととは思えんかったねえ。結果が出るまでの1週間ぐらい、深刻に悩んだよ。

 幸い僕の場合、軽度の貧血。あの時からかなあ、自分が被爆者じゃという自覚が出たのは。何かの折、ひょっとしたらと、今でも思うね。(「中国新聞」2015.7.18)

 

 那須さんは1976年から「ズッコケ三人組」の連載を始めてベストセラー作家の道を歩みだすが、同時に戦争をテーマとする児童文学にも挑んだ。

 

 やっぱり、戦争は過去のことじゃないと、子どもたちに伝えたかったからね。(中略)過去の戦争を語った作品を読んで「あー、自分たちは平和で良かった」で終わってしまうことは多いから。今も、戦争の危機はあるんだよと。(「中国新聞」2015.7.30)

 

 その集大成が、『絵で読む広島の原爆』であり、それに続く『ヒロシマ』三部作だったのだ。