「軍都」壊滅113 「軍都」の虚実5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 グローブスは「陸軍司令部は城跡に設置され、約二五、〇〇〇人の兵力が各地に駐屯していた」と主張している。内実はどうだったか。兵隊の質や装備はボロボロでもう戦力とはいえなかったが、忘れてはならないことがある。

 陸軍少尉なりたてで中国の戦場に行き、行った途端に銃弾を胸に受けて下半身付随となった私の伯父、精舎善明の短歌がある。

 

 昭和十九年 述志 

 足なくもい這ひよぢりてひとすぢにわが大君の辺にぞ斃れむ

 

 私の父に言わせれば、伯父は「コチコチの軍国青年」だった。戦後その心の縛りが解けた頃はもう死期が迫っていた。精舎善明が死んだのは1950年。28歳。

 原民喜は小説「壊滅の序曲」で、主人公の正三が警察署で防空演習の訓話を聞いたことを書いている。

 訓話をしたのは、「ロボット」だった。

 

 なるほど戦局は苛烈であり、空襲は激化の一路にあります。だが、いかなる危険といへども、それに対する確乎たる防備さへあれば、いささかも怖るには足りないのであります」

 さう云ひながら、彼はくるりと黒板の方へ対いて、今度は図示に依つて、実際的の説明に入つた。……その聊かも不安もなさげな、彼の話をきいてゐると、実際、空襲は簡単明瞭な事柄であり、同時に人の命もまた単純明確な物理的作用の下にあるだけのことのやうにおもへた。珍しい男だな、と正三は考へた。だが、このやうな好漢ロボツトなら、いま日本にはいくらでもゐるにちがひない。(原民喜「壊滅の序曲」1949)

 

 広島は他の「軍都」同様に「ロボット」をつくりだす町だった。戦争は人を変えてしまう。中国新聞の記者大佐古一郎は愕然とした。

 

 私が二部隊に応召していたとき、病院から下番した元長野部隊の伍長が得々と話していた言葉を絶対に忘れられない。

 「北支の戦闘のとき、農家の女を強姦して射殺したところ、赤ん坊がいつまでも泣き止まぬので石臼をその児の頭の上に落として殺し、上官の命令で証拠を残さぬためその家を焼き払った」憐憫の情も反省も後ろめたさなど何もない人間の姿をした動物がしゃべっていたのだ。軍隊はこうした没個性的な兵隊を大量生産する工場であったともいえる。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 人間の心を失くして「ロボット」にならなければ人殺しを続けることはできないだろう。死にゆく人の絶望を笑って見ていることはできないだろう。でも少しでも人間の心が甦ったら、兵士は自分を呪うしかない。

 1945年5月23日、ルソン島北部で死んだ一人の兵士の日記がその日押収された。こんなことが書かれていた。

 

 毎日、ゲリラと原住民の討伐で過ごす。私はすでに100人以上を殺した。故郷を出るときに持っていた素朴さはとっくに消えうせた。いま私は無情の殺人者であり、私の刀はいつも血でぬれている。それは私の祖国のためだが、まったくの残忍さだ。神よ、私を許してください。おかあさん、許してください。(林博史「日本軍の命令・電報に見るマニラ戦」『関東学院大学経済学部・経営学部総合学術論叢』2010)

 

 過ちを忘れたら、兵士の魂が浮かばれることは永遠にないだろう。過ちを忘れたら、これからまた同じ苦しみに悶える者が出てくるだろう。それ以上に、殺された人たちはどうなる。

 恐れることがある。「軍都広島」の過ちを原爆で消し去ることはできないが、しかし、今の私たちは、もしかしたら、いとも簡単に忘れてしまうかもしれないということを。