当時15歳の田川俊夫さんは、8月6日に東洋工業の第4工場から建物疎開作業に出た45名の中の一人だった。朝の7時ごろに府中町の工場を出発し、1時間ぐらい歩いて鶴見橋の西、数百メートルあたりに到着した。爆心地からの距離は1.2kmぐらいか。
すぐに点呼が始まったが、「あ、飛行機雲だ」の声に顔を上げると、落下傘がすうっと降りて来るのが見えた。
「あれはなんだ」と云っているうちに私の目の間近なところで稲光のような閃光に思わず両手で顔を覆った。と同時に腹に響くような爆発音がし、次の瞬間凄まじい勢いの爆風が襲ってきた。この爆風も強烈な熱風といってよいかもしれない。土埃とごみであたり一面真っ暗になった。吸い込めば喉の奥まで焼けるような熱い空気と舞い上がる砂まじりのごみで息が詰まりそうになった。咳をしながら転げるように何処をどう走ったか、物にぶつかりながら夢中で走った。(田川俊夫「原爆 私の手記」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
気がつくと上着が燃えていた。髪は焼けてちぢれ、顔や首、手は皮膚がめくれて垂れ下がり、やがて顔は誰だかわからないぐらいに腫れ上がった。暑いし火傷が痛くてたまらない。それでも会社の先輩に助けられてなんとか工場までたどり着いた。
県北の村から母親が駆けつけてきたのは被爆して数日経ってのことだった。
どこを向いても腫れて赤むげになっている負傷者と悲痛なうめき声。息も絶え絶えの苦しそうな人を目の当たりにした母は、この世の出来事であろうか、これはまさに生き地獄だと思ったそうである。
聞こえていたうめき声が静かになったと行ってみれば息を引き取っている。昨日はあそこ今日はここと毎日のように息を引き取る人がいて、今度はこの子ではと、気の休まる時がなかったと言っていた。(「原爆 私の手記」)
東洋工業から建物疎開作業に出た人たちの中には広島一中の生徒もいた。東洋工業に動員されていた3年生約150人のうち当日夜勤の予定だった約80人の生徒だ。その中の一人森下弘(ひろむ)さんは、原爆の閃光を浴びた瞬間、「巨大な溶鉱炉に投げ込まれたような感じ」だったと語られる。森下さんもまた「ずるむけて皮膚が垂れとる」変わり果てた姿になっていた。
しばらく知人宅で療養を続けました。顔や手足から血うみが垂れるからあおむけに寝ておくしかない。河原で死体が焼かれていると聞くと、次は自分かと不安でね。被爆したものの無傷だった叔母は、私を見舞った後に口から黒い泡を吐いて亡くなったらしい。放射線の怖さですね。(「中国新聞」2022.4.16)
広島県社会援護課が作成した「職域国民義勇隊名簿」によると、東洋工業から建物疎開に出た800人のうち亡くなったのは76人とされている。(広島平和記念資料館企画展「国民義勇隊」2010)
田川さんや森下さんは幸い一命を取り留めたが、火傷はなかなか治らず、やっと治っても顔にはケロイドが残った。体の具合も良くない。
田んぼや畑の仕事に出てもすぐに疲れる。
「なにをやらしてもしわがるのう、やっぱりピカドンにやられているけんかのう」軽い仕事をさせてもすぐ疲れる私に、母はそう言って嘆いていた。このような意気地のない生活が十八才の夏まで続いた。(「原爆 私の手記」)