「軍都」壊滅27 軍需工場13 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 西川利江さんは当時17歳、東洋工業で経理の仕事をしていた。しかし1945年8月6日からの3日間は朝から晩まで原爆の負傷者の看護に追われることになる。運び込まれる負傷者はあまりにも多く、医務室にあった薬や包帯はすぐに底をついた。

 西川さんは6日の夕方からは男子寮で朝鮮人徴用工の看護にあたった。薬がないので近くの農家の人が持ってきてくれたジャガイモをすって傷口に塗った。でも翌日には傷口にウジがいっぱいわいていて、それを取り除くのが大変だったという。

 

 朝鮮から連れてこられた徴用工の人たちのことは特に忘れられません。建物疎開中に被爆し、皆一様にひどいやけどで焼けただれており、「アイゴー オモニー(お母さん)、アイゴー オモニー」と泣きながらたくさんの方が亡くなっていきました。(西川利江「犠牲者への追悼の思い」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 東洋工業には1944年12月に200人、1945年1月に100人など多数の徴用工が朝鮮から連行されてきたという証言がある。(広島の強制連行を調査する会編『地下壕に埋もれた朝鮮人強制労働』明石書店1992)

 西川さんによると、この人たちは旋盤で出た鉄くずの運搬などの力仕事をしていた。そして周りから蔑まれ、いわれのない差別を受けていたという。西川さんは後々まで心が痛んだ。この人たちはどこでどのように葬られたのだろうかと。

 原爆の後しばらくは放心状態だった東洋工業だが、敗戦になると小銃製造工場が取り壊され、東洋工業の軍需工場としての歴史はその幕を閉じた。

 工場の前途が見えない中で従業員数は大幅に削減され、8883人が解雇された。残ったのはわずか886人。解雇された中には動員された「学徒」1869人や「女子挺身隊」114人も含まれるが、さらに朝鮮人徴用工324人がいた。(『東洋工業株式会社三十周年記念事業委員会『東洋工業三十年史』1950』)

 解雇された朝鮮人徴用工のうち原爆の被害を受けた人がどれだけいたのかわからない。けれど、建物疎開に出て命は助かったものの、前に紹介した田川さんや森下さんのように火傷の後遺症や「原爆症」に苦しんだ人もいたのではなかろうか。新しい仕事は見つかったのだろうか。祖国の地を踏むことはできたのだろうか。

 兵器生産がなくなって空いた東洋工業の社屋には8月下旬から広島県庁が間借りし、さらに中国新聞社や広島中央放送局(NHK)、裁判所なども同居することになった。

 また仕事としては、中国新聞社が広島市の近郊の温品(ぬくしな)に疎開していた巨大で精密な輪転機を分解し、市内の上流川町(現 胡町 今は広島三越)の本社に運んだ後で再度組み立てることもやった。その間の苦労話は中国新聞社の『もう一つのヒロシマ』(1985)に詳しい。

 そして東洋工業は11月24日にやっと「民需転換計画」がGHQに受理され、12月に10台の三輪トラックが完成した。こうして東洋工業は自動車工場として再出発し、今のマツダに発展していく。

 マツダも今後はさらにグローバルな企業となっていくだろう。けれど広島で育った会社ならいつまでも大切にしてほしいことがある。それは戦争とともに会社が発展してきたことへの反省であり、原爆で命を落とした多くの人たちの追悼だ。