1945年3月、東洋工業は空襲下でも生産ができるよう「生産力ト防衛トノ一体的強化」を図るため、会社近くの山にトンネルを掘り、そこに工場を分散疎開することを決定した。トンネルは高さと幅が4mで総延長5000m。3月15日に着工して8月には操業を一部開始し、10月末に完成予定だった。(「東洋工業株式会社工場疎開計画書」『広島県史 近現代資料編II』)
しかし、工事は遅々として進まなかったという。地下工場を建設するために必要とされた労働者は延べ313,500人(1日最高2,277人)、荷馬車は延べ4,500台(1日35台)だったが、それだけの人や馬を調達するのは難しかったのではなかろうか。また広島一中の梅田實さんの手記にも、何日か穴掘りをさせられたという記述があるが、大きなトンネルを中学生が手作業で掘るのも大変だっただろう。
5月末にはトンネル工事用セメントを満載した船が小倉沖で機雷に接触して沈没する事故もあった。(『東洋工業株式会社三十周年記念事業委員会『東洋工業三十年史』1950』)
機雷は海中に投下され水圧や音などに反応して爆発する。アメリカ軍は1945年3月27日に関門海峡に初めて機雷を投下し、以後全国の主要な港湾を機雷で封鎖していった。広島県内でも3月31日から4月3日にかけて広島湾や呉軍港にかなりの数の機雷を投下している。(中国新聞呉支社『改訂版 呉空襲記』中国新聞社1975)
中国新聞記者の大佐古一郎さんは6月20日の日記にこう書いている。
きょうは珍しく空襲警報が発令されなかった。しかし今月になって八、十、十二、十四、十六、十八日の深夜、B29の数機編隊が瀬戸内海に機雷を投下している。今夜も来るだろう。日本海には敵の潜水艦がいる。大陸と本土を結ぶ貨物船はどのような就航をしていることか……。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)
呉市発行の『呉の歴史』(2002)によると、機雷の被害を受けた海軍艦艇は72隻、一般船舶589隻で、瀬戸内海をはじめ全国の主要な航路は麻痺状態となった。物資が運べない。
地下工場建設の遅れにより、東洋工業で最初に移転するはずだったピストン製作工場は計画を変更して、呉市の広にある第11海軍航空廠の地下工場に移転することになった。しかし移転したその地下工場も5月5日の空襲で山が崩れて埋まってしまい、1日も稼働することはなかった。(『東洋工業三十年史』)
広島一中の生徒だった高橋宏さんがご自身の描かれた「原爆の絵」の説明として、「飛行機エンジンのピストンとロッドの製造過程で働き、最終の頃は九九式小銃製造の工場へ回されていた」と書いておられるのは、ピストン製作工場の移転と関係がありそうだ。そして最後に回された小銃生産の現場も、工場疎開をしながらの作業だった。
『広島原爆戦災史』の中に東洋工業で小銃組立工として働いていた山本稔さんの手記がある。それによると当時兵器の組立工場は府中町の北の山中に疎開の作業中だったから、毎日歩いて現場へ通っていたとのこと。
材料が不足している上に機械も引っ越しの最中では手持ち無沙汰の人も多かったのだろう。8月6日、東洋工業から市内の建物疎開作業に出動した人員はかなり多く、800人はいたと見られている。(広島平和記念資料館企画展「国民義勇隊」2010)