兒玉光雄さんの染色体がおかしな形をしていたのは、放射線によって染色体が切断され、修復しようとして間違った結合をしたためだ。兒玉さんの場合、それは極めて高い異常率で、それが体のいたるところにがんができた原因と考えられている。兒玉さんの身体には22個のがんができて、その22個目の腎臓がんは手術をあきらめた。造血幹細胞の異常で血小板が極度に減少し、もう手術のできる体ではなかったのだ。(横井秀信『異端の被爆者 22度のがんを生き抜く男』新潮社2019)
2020年10月28日、兒玉光雄さんは原爆と闘い続けたその生涯を閉じた。88歳だった。
兒玉さんが被爆したのは爆心地から約850m離れた木造平屋建ての校舎の中。居森清子さんが被爆したのは410m離れた鉄筋コンクリートの校舎の地下室。建物など放射線をいくらかでも遮るものがあったから何とか生きのびることができた。遮るものが何も無かったら、どんなことになっていたのだろう。
いくつか資料を見ると、放射線を7~8シーベルト以上浴びるとどうやっても生きていられないようだ。屋外で何もさえぎる物がなかったら、爆心地から900mの距離でそれくらいの放射線を浴びることになる。(朝永万左男他「核兵器使用の多方面における影響に関する調査研究」外務省委託研究2014)
しかしその距離であれば熱線に焼かれて死んでも、爆風に吹き飛ばされ地面に叩きつけられて死んでもおかしくない。居森清子さんの友だちの高木さんがそうだった。
被爆直後の本川国民学校の校庭で、居森さんは高木さんの「助けてぇ、清子ちゃーん」と呼ぶ声を聞いた。
その子は黒焦げの変わり果てた姿で、誰なのかわかりませんでした。「あなた誰!?」と聞くと、「高木です」と答えます。私の仲良しだった少女でした。運動場で遊んでいて被爆したようでした。(中略)私と和子さん、二人の先生は、重傷の高木さんを小舟に横たえ、五人で川に入りました。それからニ、三分して、高木さんは亡くなりました。それまでよくぞ生きていたと思います。(居森公照『もしも人生に戦争が起こったら―ヒロシマを知るある夫婦の願い』いのちのことば社2018)
本川国民学校は爆心地からの距離410mなので、そこで浴びた放射線は約160シーベルトというとんでもない線量と推定される。けれど高木さんは熱線で黒焦げにされているので、放射線がどのように高木さんを痛めつけたのか、確かめることは不可能だ。それは他の近距離被爆者も同じだろう。
ところが、この日本で、放射線が人の体をいかに傷つけ死に至らしめたか、その過程が克明に記録された出来事が、今のところ一つだけある。1999年9月30日に茨城県東海村のウラン加工施設で起きた臨界事故だ。安全性を無視した作業によって臨界となり発生した大量の中性子をあびて、二人の作業員が命を絶たれた。