ヒロシマの記憶40 見えない恐怖1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 本川国民学校は爆心地から410mという至近距離なので、校庭で遊んでいたら熱線で全身黒焦げにされ、爆風に吹き飛ばされてしまう。そのうえ強烈な放射線も浴びるので助かる可能性は全くない。当時市内では数少ない鉄筋コンクリートの校舎の地下室にいたからこそ、居森清子さんは生きのびることができた。

 と言っても、居森さんが浴びた放射線量は推定4.9シーベルトで、1か月の間に半数の人が死亡するとされる半致死量4シーベルトを超えている。一緒だった青原和子さんは被爆から2週間ぐらいして亡くなっているのに、居森さんはなぜ生きのびることができたのか、不思議としか言いようがない。

 その居森さんも、これでもう安心といえる時はなかった。それが原爆の怖さだ。原爆に遭って生きのびるということは、一生「原爆症」(放射線障害)がついてまわるということでもある。

 居森さんたちは猛火を逃れて午後3時ごろまで川に浸かっていた。それからトラックに乗せられて避難所となった農家に行ったのだが、そのころから体に異変が起きていた。

 

 その家には一週間ほどいましたが、その間は何も喉を通りませんでした。出してくださるご飯も、水すらも、口にしてもすべて戻してしまいました。熱も高かったように思います。(居森公照『もしも人生に戦争が起こったら―ヒロシマを知るある夫婦の願い』いのちのことば社2018)

 

 そして両親を原爆で失った清子さんは親戚に引き取られるのだが、そこで体の具合はさらに悪くなった。

 

 …空腹とともに体調の悪化にも苦しみました。ひと月に十日は寝つくようになり、とにかく体がだるい日が続きました。髪もくしでとかすと全部抜けてしまい、「明日こそは死ぬのではないか」と、毎晩寝る時が怖かったのです。(『もしも人生に戦争が起こったら―ヒロシマを知るある夫婦の願い』)

 

 こんな状態が半年続いた。けれどこれら急性の放射線障害を乗り切ると、清子さんは、しばらくは自分が被爆者だということも忘れるような日々を送ることができ、夫となる居森公照さんと出会うこともできた。

 けれど、「原爆症」は回復したわけではなかった。白血病やがんになる被爆者は多い。居森さんも40歳になってのすい臓がんに始まり、50歳になってからは病院で検査をするたびにがんが見つかった。甲状腺がん、大腸がんは2回、脳の髄膜や背中にもがんができた。

 強い放射線を浴びた人は特にがんができやすいのはなぜか。広島一中の校舎内で被爆した兒玉光雄さんは自分のリンパ球の染色体を放射線影響研究所の遺伝学部長中村典さんに調べてもらっている。

 

 兒玉の染色体は、サンプルとして並べられた正常な染色体の写真と較べると、一見しておかしな形をしていた。万歳をする腕の部分が極端に長い、あるいは、足の部分が短いものが多数含まれていた。(中略)

 「これは、治らないのですか?」

 中村が答えた。

 「血液をつくる幹細胞が放射線によって損傷を受けているので、一生涯回復することはありません」(横井秀信『異端の被爆者 22度のがんを生き抜く男』新潮社2019)