ヒロシマの記憶42 見えない恐怖3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 ウラン235など核分裂を起こす物質の質量が一定の条件下で一定量を超える(臨界を超える)と核分裂が連鎖反応で爆発的に増加し、大量の放射線やエネルギーを放出する。臨界を制御できなかったら大惨事は免れない。

 1999年9月30日、茨城県東海村にある核燃料加工施設JCO東海事業所では、大内久さんともう一人の作業員がバケツに入ったウラン溶液を大型の容器に移し替える作業をしていた。

 突然、大内さんは青い光を感じた。それは大内さんらが大量の放射線(中性子)を浴びた瞬間だった。隣の部屋にいた上司が「逃げろ」と叫び、大内さんと同僚はすぐにその場を離れたが、その直後、大内さんは嘔吐し、一時意識を失った。さらに病院へ搬送中、下痢の症状も見られた。嘔吐や下痢は広島の被爆者にも多く見られる。

 大内さん自身は知らされていなかったが、大内さんらがしていた作業の手順は、会社の黙認のもと安全性を全く無視したずさんなものだった。その結果、大内さんが浴びてしまった放射線の線量は、10分以内の嘔吐、1時間以内の下痢といった症状から8シーベルト以上と推定された。8シーベルトでもう致死率100%。最初から救命は危ぶまれた。

 NHK「東海村臨界事故」取材班による『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』(新潮文庫2006)によると、10月1日、事故当日に千葉市にある放射線医学総合研究所(放医研)に入院した大内さんの意識ははっきりしていた。外見は顔面が少し赤くなっているぐらいで、とても重傷の患者には見えなかったという。被曝した瞬間に命を絶たれるわけではなかったのだ。しかし、すでに血液中のリンパ球が激減していることがわかっていた。

 リンパ球は白血球の一種で免疫を掌っている。リンパ球が激減するとウイルスや細菌、カビなどの感染を防ぐことができなくなるので、白血球をつくりだす造血幹細胞の移植が必要となってくる。10月2日午後、大内さんは東京大学医学部附属病院の集中治療室に入ることになった。この時点で、最も中性子を浴びているとみられる右手が一気に赤く腫れあがっていた。

 10月5日、東大医学部附属病院の無菌治療部副部長で造血幹細胞移植の権威である平井久丸さんのもとに、3日に採取した大内さんの骨髄細胞の顕微鏡写真が届いた。

 

 そのなかの一枚を見た平井は眼を疑った。

 写真には顕微鏡で拡大した骨髄細胞の染色体が写っているはずだった。しかし、写っていたのは、ばらばらに散らばった黒い物質だった。平井の見慣れた人間の染色体とはまったく様子が違っていた。(『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』)

 

 染色体がばらばらに壊れてしまったら、大内さんの体はもう新しい細胞をつくることができない。被曝した瞬間に、大内さんの運命が決まってしまったのだ。

 5日には大内さんの血液からリンパ球が消え、白血球全体の数も急激に減少していた。この日、大内さんは無菌状態を保つクリーンルームに入る。そうしないと、あっというまにウイルスや細菌に感染し高熱を出して生死の境をさまようことになっただろう。広島の多くの被爆者がそうだった。