松田重次郎は1918年に日本製鋼所の出資で広島製作所を設立し日本製鋼所から送り込まれた重役たちとともに経営にあたったが、大企業の「お役所式」の仕事ぶりに我慢ができなくて自ら会社を去り、広島製作所は日本製鋼所が全額出資する日本製鋼所広島工場となった。
松田重次郎はその時まだ44歳。やる気満々だった。広島市の上流川町(今の上幟町のあたりか)に家を買い、そこで母のリヨを看取った後、1921年に当時業績低迷だった東洋コルク工業の経営を引き受けた。
ビンのコルク栓をつくるのは重次郎にとって畑違いの分野ではあったが、業績低迷ということは、それだけ重次郎の思い通りに仕事ができるということでもあったのだろう。すぐに新工場を作って売り出したのはコルク板だった。
コルク板といっても私が思いつくのは掲示板ぐらいだが、東洋コルク工業のコルク板は海軍から大量の注文が入った。コルクが熱や湿気を遮断するということで火薬貯蔵庫に使われたのだ。今ならドローンが武器として使われているように、缶詰だろうがリュックサックだろうが松の根っこだろうが、軍に納入したら軍需品、工場は軍需工場だ。松田重次郎は軍に対してむしろ嫌悪感を抱いている方だったが、会社そのものは戦争が終わるまで軍から離れることはできなかった。
製品は売れても、東洋コルク工業の経営には苦心している。大戦景気の反動で1920年に株価が大暴落して松田重次郎は大損し手持ちの金がなくなった。1923年には関東大震災が起きて日本経済全体が大打撃を受け、冷蔵庫メーカーや製氷会社などからの注文がパタリと止まった。さらに悪いことに1925年、工場内で火災が発生し、工場と製品がほとんど焼失してしまったのだ。これには重次郎もすっかり落ち込んだ。(安西巧『マツダとカープ 松田ファミリーの100年史』新潮新書2022)
しかしこの時もまた機械一筋に生きて来た松田重次郎を信頼して救いの手を差し伸べる人物が現れた。一代で日窒コンツェルンを築いた野口遵(のぐち したがう)である。
野口は現在のチッソである日本窒素肥料の他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業などの実質的な創業者。広島との関係も深くて、短期間だが中国電力の前身である広島電気会社の取締役になったり、デパートの福屋の創業を援助したりもした。
野口は松田重次郎を信頼して大金を貸し、債務保証人にもなり、おかげで重次郎は窮地を脱した。重次郎はあらためて「機械屋」として再起をはかり、1928年に社名から「コルク」をとって「東洋工業」とした。
東洋工業として再出発してすぐは呉海軍工廠から独立した広海軍工廠、さらに呉や佐世保の海軍工廠から部品の製造を受注して息をついた。しかし東洋工業の名が広く知られるようになったのは三輪トラックを売り出してからだ。それはオートバイの後輪を二輪にして、そこに荷台を置いたもので、通称「バタンコ」と呼ばれた。