戦争の足音57 広島の変貌11 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 野口遵のバックアップで息を吹き返した松田重次郎は大阪でポンプを作っていた頃からの夢だった自動車づくりの第一歩を踏み出した。最初は二輪のオートバイで1929年にオートバイのエンジン製作に成功し、1930年には向洋の隣の府中村(現 安芸郡府中町)に工場を建設して大量生産に乗り出した。そして翌年に売り出した三輪トラックの通称バタンコは大ヒットとなった。

 松田重次郎が自動車産業への進出をめざした背景には軍に振り回されたくないという思いがあったようだ。

 

 軍部などはずいぶん我儘なもので、註文をよこす時はどつとよこして、命令的にせきたてるが、需用の都合では、ぴたりと註文をとめてしまう。それでは機械のみでなく職工をも遊ばせておくことになる。仕事は始終調子よく、なだらかに運ばなければならない。それが工場経済の基本である。(松田重次郎『工場生活七十年』私家版1951)

 

 重次郎は工場を経営する立場から軍部のやり方に不満を持つのだが、軍部としても武器の発注を気まぐれでやっていたわけではなかろう。いざ戦争となれば一刻も早く兵器・弾薬を生産し補給しなければいけないし、戦争が終わって軍縮となれば予算は一気に減らされる。民間企業への発注削減どころか軍の工場でも労働者を大量に解雇せざるを得なかったのだ。

 

1922年 ワシントン海軍軍縮条約 陸軍の6万人兵力削減

1925年 宇垣陸相による4個師団廃止

1927年 第1次山東出兵

1928年 第2次山東出兵

1930年 ロンドン海軍軍職条約

1931年 「満州事変」

1936年 ワシントン海軍軍縮条約失効

1937年 日中戦争

 

 三輪トラックが好調でさらに四輪トラックに進出できれば、戦争があっても無くても、東洋工業は「始終調子よく、なだらかに」経営できたかもしれない。しかし、1937年に日本が日中戦争をおこすと東洋工業も否応なしに軍事工場に転換させられていった。

 

 兵器製造を社に押しつけて来たのは、昭和十三、四年頃からだ。陸軍小倉工廠の作業課長中村大佐が、突然社を訪れて銃の部分品をつくつてくれとの依頼である。(中略)

 そのうち、世界の情勢は次第に険悪になった。すると、私は陸軍省兵器局へ呼び出された。和気という中佐が銃器の製作を引き受けろと命じた。こんどは仕事を順調に与えるから、必らずやれとのことで、陸軍大臣の命令だというのであつた。(『工場生活七十年』)

 

 日中戦争当時、陸軍の日本本土にある兵器製造工場としては東京工廠、名古屋工廠、大阪工廠、そして九州の小倉工廠があった。戦争が始まると政府は軍需産業に資金や資材を集中的に割り当て、各工廠では兵器の増産にフル回転したのだが、設備や工員数が不足して軍部の要求に全て応じることは不可能だった。

 そこで目をつけたのが民間工場だ。1940年度の『陸軍兵器廠歴史』には銃器に関して「廠内設備ヲ拡充シ生産増加ヲ図ルト共ニ事変以来急遽民間工場ノ利用ヲ拡張シ既ニ生産シ得ルニ到リタルモノアル…」としている。しかし銃器を作れと言われてすぐに完璧なものができる工場は多くなかったようだ。

 その中で東洋工業は銃器生産技術のある優秀な会社だったということになるが、そのとばっちりで三輪トラックは最盛期には年に3000台製造したのが戦争末期の1944年には100台ぐらいしかつくることが出来なかったという。(「中国新聞」2019.12.17)

 それでも、兵器を作るから鉄鋼などの資材を軍から分けてもらえてやっと会社を続けることができたのだ。