戦争の足音55 広島の変貌9 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 日本兵器製造の重役や出資者たちは松田重次郎の新工場建設計画に待ったをかけた。大阪から遠く離れたところにこんなに広い土地を買って果たしてうまくいくのかと不安になったのだ。1917年、松田重次郎は日本兵器製造を離れてひとり広島に戻った。

 重次郎に救いの手を差し伸べたのが日本製鋼所だった。1920年、重次郎が確保していた土地に日本製鋼所の広島工場ができ、現在の日本製鋼所広島製作所に続く。日本製鋼所は1907年に北海道の室蘭に設立された兵器と鉄鋼を製造する会社だ。

 日露戦争の後、日本海軍はアメリカを仮想敵国として戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻を建造していく「八・八艦隊」の実現を目指し、同時に兵器の国産化を横須賀や呉の海軍工廠で進めた。しかしイギリスなど世界の海軍強国の技術革新は日本のはるか先を行っており、特に戦艦に搭載する巨砲の開発・製造はイギリスの兵器製造会社に頼らざるを得なかった。

 そのころ北海道で炭鉱や鉄道を経営していた北海道炭鉱汽船が製鉄業への進出を計画した。しかし呉鎮守府司令長官山内万寿治のアドバイスで、軍艦に搭載する大砲の製造とその素材である鉄鋼の生産をすることになり、設立したのが日本製鋼所である。

 政府・海軍が橋渡しをしてイギリスの兵器製造会社が出資、技術援助を行い、事業内容は主に海軍の銃砲や弾薬の製造。そして山内万寿治が現役の海軍中将のまま日本製鋼所の顧問に就任したことからみて、日本製鋼所は、実質、海軍の兵器工場そのものだと言えるだろう。 (奈倉文二「日本製鋼所の設立とその特徴」『茨城大学政経学会雑誌 第67号』1998)

 日本製鋼所が船越村一帯の土地に目をつけたのは、太平洋に面した室蘭と違って海からの攻撃を防ぎやすい土地だからだと松田重次郎は考えた。それもあるかもしれないが、日本製鋼所が呉工廠の開発した兵器を製造する協力企業であったことからすれば、第一次世界大戦中からの海軍の軍備増強に対応するため呉海軍工廠の近くに新たに工場を設ける必要があったと考えるのが妥当ではなかろうか。

 日本製鋼所広島工場ができるまでは船越あたりでも海外への出稼ぎが多かった。それが工場ができてからピタリとやんだのだそうだ(高雄きくえ「広島と呉のあいだ―『船越町』近現代史を探索する」『比較日本文化学研究 第12号』広島大学2019)。それだけ日本製鋼所広島工場に多くの働き口があったということだろう。

 しかし兵器工場は平和な時には仕事がない。1922年に米・英・日・仏・伊の間で「海軍軍縮条約」が結ばれると呉海軍工廠で6417名もの職工が解雇されている。当然、協力工場の日本製鋼所広島工場にも影響は及んだことだろう。

 兵器工場が生産を維持・拡大するためには戦争が必要だということになる。戦争しないで軍備拡張だけすることがあるかもしれないが、いずれにしても相手国と軍備拡張競争をすればきりがなく、国家財政は危機に瀕する。国民は増税か、あるいは紙幣を刷りすぎてのハイパーインフレに悩むかを迫られる。では、よその国に武器を売ったら? それはよその国の人たちの血が流れるのを見て内心喜ぶことに他ならない。でも、そんなことを気にしていたら暮らしていけないとでも、私たちは言ってしまうのだろうか。