爆心地ヒロシマ41 「絶後の記録」27 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 爆心地から東に260m。紙屋町の電車通りに住友銀行広島支店があった(現 三井住友銀行広島支店)。

 8月6日の朝、開店を待っていたのだろうか、一人の人が銀行入口の石段に腰を下ろしていたという。原爆の熱線で石段は一瞬にして白く変質し、ちょうど人の陰になっていたところだけが黒っぽく残って、後に「人影の石」と呼ばれるようになった。今は切り取って平和記念資料館の中で見ることができる。

 「人影」を残した人は行方知れずで誰だったのかわからない。1971年になって自分の母ではないかと名乗り出た人がいた。爆発の5分前に石段のところで見たという知人の証言もあった。しかし現在、平和記念資料館は「人影」を残した人を特定できていない。他にも名乗り出た人があったらしい。

 被爆当時の惨状を住友銀行広島支店の隣の芸備銀行本店(現 広島銀行本店)内で被爆した高蔵信子(あきこ)さんが証言している。高蔵さんは火に追われて隣の住友銀行のビルの中に逃げ込んだ。

 

 銀行の中に入って大変驚きました。机、椅子などが粉砕され、山積みとなり、沢山の職員の方が血を流して、即死していらっしゃるのです。「アッ」という声を発するのみで、言葉もありません。(高蔵信子「今、語り伝えたいこと」広島平和記念資料館HP被爆者は語る)

 

 おそらく、そのあたりでの爆風の風速は秒速200m以上。窓ガラスを突き破り屋内で荒れ狂った爆風に中の人は吹き飛ばされ、床や壁に叩きつけられて亡くなられたに違いない。そして外に出て見たら、熱線に焼かれ爆風に吹き飛ばされた死体が電車通りの道一杯に折重なっていたという。

 8月9日に石段の遺体を収容したと証言する人もあったのだが(高橋昭博他『きみはヒロシマを見たか 広島原爆資料館』日本放送出版協会1982)、住友銀行広島支店は7日から市内に救援に入った部隊の本部となっており、その日のうちに建物内外の遺体の収容を始めたと考えられるから、9日に玄関の石段にあった遺体が「人影の石」の人だったと断定するのは難しいだろう。

 とにかく、ピカッと光ったとき石段に誰かがいて「影」だけを残して消えてしまった。そのことを唯一証言する「人影の石」は戦後早い時期から市民の注目を集め、峠三吉も詩の中に取り入れている(峠三吉「影」『原爆詩集』)。

 小倉豊文は「人影の石」を見てロダンの「考える人」が頭に浮かんだ。誰が何と言おうと、「人影」は小倉豊文にとって新しい「考える人」となった。見るたびに、「人影」は小倉豊文の胸をえぐるように、考えることを迫ってくるのだ。

 

 ――広島のような経験を、人類は再びするなよ。

 無言で、「考える人」がそう言っているように思われてならないのだ。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)

 

 では広島・長崎を繰り返さないために人類はこれからどんなことをしなければならないのか。小倉豊文が期待するのは教育だった。国連にはユネスコ(国際連合教育科学文化機関)もできた。核兵器による人類の自殺、地球の破滅を防ぐのは教育の力しかないと確信するのだった。

 それでは自分自身は一体何をなすべきか。小倉豊文が考えて出した結論は、「本当のリベルタンとして独り歩きして行く」ということだった。

 「リベルタン」とは何か。太宰治が戦後に書いた短編「返事」の中にこうある。「私は無頼派(リベルタン)です。束縛に反抗します」。

 もう「ねじを巻かれた道化人形」にはならない。「道化人形」になって広島のような地獄を見るのは二度とごめんだ。