小倉豊文の『絶後の記録』にはアメリカとアメリカ軍に対して批判も不信も怨恨も書かれていなかったから検閲にパスできたと小倉豊文は言う。
しかし当時は原爆の惨状を描写しただけで読者にアメリカに対する怨恨を呼びおこすとして発禁の対象となる時代だった。とすれば占領軍の一部に『絶後の記録』の出版を容認する動きが出てきたのかもしれない。
小倉豊文は、アメリカを憎むのではなく、むしろアメリカを歓迎し、それまでの日本の軍国主義を否定し、そしてリベルタンとして自由と民主主義を賛美した。こうした書物が世に出ることは日本を統治するアメリカにとって好都合だと考えた人たちがいたとして不思議ではないような気がする。あるいはまた「いい本だ」とひとり感激して検閲をパスすることに力を貸した人がいたのかもしれない。
それでも、「原爆の惨禍が、原爆以後もなお続いていると言う表現は如何なる意味でも書いてはならない」(栗原貞子『ヒロシマの原風景を抱いて』未来社1975)というのが基本路線なのだから、残留放射能のところなど痕跡を残さずに削除するよう命令することも十分ありえたことだった。なのに削除されなかったのは、やはり謎としか言いようがない。
それにしても、「リベルタン」として独り生きていくことが「広島のような経験を、人類は再びするなよ」という原爆で亡くなった人たちの願いに対するたった一つの答えだとするのは、今一つ納得がいかない。
確かに小倉豊文の言う「ねじを巻かれた道化人形」、原民喜の言う「好漢ロボット」になってしまえば権力に対しての批判はあるはずもなく、残虐な行為もいわれるがままにしてしまいかねない。
けれど小倉豊文は戦後の「平和運動」にも背を向けた。8月6日になると広島を逃げ出したくなると書いている。「平和運動」の中に新たな権威とそれによる束縛を見出したのかもしれないが、でも、独りでいったいどれほどのことが出来ようか。
それでも小倉豊文は晩年まで平和を求めて精一杯のことをしたのは間違いない。
権威には背を向けても、義理と人情には弱かったようで、小倉豊文はどうしてもと懇願されて大学に残ることとなった。それからは広島の文化財保護に情熱を注ぎ、私の本棚には小倉豊文の『広島県の文化財めぐり』という本がある。
それはただの文化財紹介ではない。たとえば比治山についてこう書いている。
…業火をのがれ、修羅場を脱出した「生きた屍」の被爆者は、この比治山に殺到し、現在のように立派な舗装のなかった登路や、その左右の樹下石上に折重なって倒れ伏し、のぞみなき救いをまっていたのである。その惨状を瞼に浮かべてもらいたい。(小倉豊文『広島県の文化財めぐり』第一法規出版1977)
小倉豊文は亡き妻文代さんにあてて書いた『絶後の記録』を「紙の墓」と呼び、そしてこの『広島県の文化財めぐり』を自分自身の「紙の墓」だと「あとがき」に書き、それから20年を生きて1996年にその生涯を終えた。
原爆で壊滅した広島の街を歩き回り、見聞きし、調べ上げ、原爆とは何か、「原爆症」とは何かを亡き妻と世界に報告した『絶後の記録』は、今の私たちにとっても、他にはない、これからもおそらくない(あってはならない)貴重な記録として読み継いでいくべきものではなかろうか。「広島のような経験を、人類は再びするなよ」という言葉と共に。