爆心地ヒロシマ40 「絶後の記録」26 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

騎兵第五連隊記念碑(二葉の里)

 小倉豊文が日本の戦争に不信を抱き、政府の命令にまるでロボットのように動く自分のあり様に疑問を持つようになったのは「ガダルカナルの転進」からだという。

 1942年6月のミッドウエー海戦に続いて8月に始まったガダルカナル島争奪戦で日本軍は南太平洋での制空権、制海権を失い、日本陸軍は21,000名もの戦死者を出した。その戦死者の約7割は餓死・戦病死であり、ガダルカナル島は「餓島」と呼ばれることとなった。(吉田裕『アジア・太平洋戦争』岩波新書2007)

 1943年2月9日、日本政府はガダルカナル戦敗北による撤退を「転進」と発表する。

 

 …ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は、昨年八月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつゝありしが、其の目的を達成せるに依り、二月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり。

 

 同時に政府が発表した16,734名という膨大な戦死・戦病死者数は日本国民に衝撃を与えた。新聞がいくら美辞麗句を連ねても、その行間からは日本の苦戦が読み取られ、それを「転進」などと言って政府が国民をごまかしているのではないかという不信と厭戦気分が国民の間に広まっていった。危機感を持った政府はそのころから「撃ちてしやまん」とか「鬼畜米英」「玉砕」といった標語を乱発し戦意の鼓舞に躍起となっていく。

 小倉豊文はそうした勇ましくて実は空虚な標語を連呼する立場にあった。心の中は政府への不信、不満がくすぶっいるのに、それを押し隠し、押し隠すことを無理やり正当化した。

 

 それで俺は生活していたのだ。お前や子供たちを食わせていたのだ。そしてそこに「かなしい諦め」を見出し、卑怯な「言いわけ」をしていたのだ。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)

 

 しかし8月6日の広島の惨状は、日本も自分自身も、もうどうにもならないところまで来てしまったことを突きつけていた。

 広島駅北の二葉の里に、1945年4月から「本土決戦」に備えて西日本の陸軍部隊を統括する第二総軍司令部が置かれた。そばにある二葉山には大規模な地下壕が突貫工事でつくられていたが、原爆の時はまだ旧騎兵第五連隊の建物が使われており原爆で焼失、司令部は壊滅状態となった。

 広島に第二総軍司令部が置かれたと知った時のことを、原民喜は小説「壊滅の序曲」にこう書いている。

 

 この戦争が本土決戦に移り、もしも広島が最後の牙城となるとしたら、その時、己は決然と命を捨てて戦ふことができるであらうか。……だが、この街が最後の楯になるなぞ、なんといふ狂気以上の妄想だらう。(原民喜 「壊滅の序曲」)

 

 8月7日、小倉豊文は第二総軍司令部の焼け跡のそばを通ると道ばたの「軍馬之墓」が目に入った。かつてそこに騎兵第五連隊があった名残だ。第二総軍の威容を示すものは何もない。

 

 ――「本土決戦」「一億玉砕」も、これでいったいどうなるのだ!

 何とはなしに、さびしい皮肉な笑いがこみあげてきた。(『絶後の記録』)

 

 「この街が最後の楯になるという狂気以上の妄想」は原爆で一瞬にして吹き飛ばされ焼き尽くされ、「本土決戦」「一億玉砕」を一生懸命吹聴してきた小倉豊文にとっては、自分がただの道化人形でしかなかったことを嫌というほど思い知らされた。