さんげの世界24 「愛しき勤労奉仕学徒よ」の章6 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 焦土に うもれいし 教師の鞄より 一冊の学童成績表 いでくる

 

 焼け身ながら 家にかえり来て 大丈夫と 親に云いしのち 息たえゆきぬ

 

 焼けただれて 瀕死のきわに 祖国日本を たのむと云いて 学徒は息切れぬ

 

 子どもたちの最後の声は、たとえ一声でも、親、家族の胸を切り裂き、その傷口からはいつまでも血が流れたに違いない。子どもたちの遺した言葉は様々だ。

 

 「…うわ言をいうようになり、引っぱれとか、倒せとか、作業のことばかり口走って…」

 「…夜おそくまでいろいろ話かけ、広島は恐ろしいところよ、と何度も何度もいいました。…」

 「…進め、進め、やっつけろ、と手をしきりにふりまわし、最後には、お母さん、おばあさん、とそれこそ声をかぎりに肉親の名を呼びつづけて死にました」

 (広島テレビ放送『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』ポプラ社1970より)

 

 正田篠枝はどのような思いで、「祖国日本をたのむ」という声をその子の親から聞いて歌にしたのだろうか。戦争中のことだから「たのむ」というのは「必勝」の願いだと感心したのだろうか。それとも、戦後になって『さんげ』に入れたのだから「復興」とか「平和」の願いとして受けとめたのだろうか。そこのところが、私にはどうもよくわからない。

 そのころの広島を代表した歌人に山本康夫がいる。自分の子ども、広島一中1年生の真澄君を原爆に奪われた。

 真澄君は雑魚場町の作業現場から全身大火傷の姿で家に帰ってきた。

 

 その夜の十一時ごろであった、子供はかすかな息の中から、「ほんとうにお浄土はあるの?」と妙な質問を発した。僕はぎくりとした。妻もちょっと狼狽した様子であったが、「ええ、ありますとも、それはね、戦争も何もない静かなところですよ、いつも天然の音楽を聞くような、とてもいいところですよ」と、かねて聞き覚えの浄土の壮厳についてくわしく説明した。

 子供は恍惚として聞き入っていたが、「そこには羊羹もある?」と反問した。この無邪気な問はさらに僕を驚かした。「ええええ、ありますよ。羊羹でもなんでも……」声をくもらせて、やっとそれだけ妻が答えると、「ほう、そんなら僕は死のう」といった。僕は溜息ももれなかった。

 (山本康夫「浄土に羊羹はあるの?」秋田正之編『星は見ている 全滅した広島一中一年生父母の手記集』平和文庫 初出鱒書房1954)

 

 それからの山本夫妻は我が子を偲ぶ歌を詠み続けたが、山本康夫は1968年の歌集『生命賛歌』に次の歌を載せている。

 

 戦争のなき国へ行くと呟きて子は息絶えぬ炎(ひ)に焼かれ来て

 

 人命を焼く炎憎みて作りつぐ歌よ貫けわれ死にしのち

 (山本康夫「生命賛歌」『原爆歌集 閃光』真樹社1998)

 

 お浄土という「戦争のなき国へ行く」。それは子の願いと親の願いが重なりあって生まれた言葉。山本康夫は「歌は直情の訴え」だと自著で述べているが、まさにそのような、いい歌だなと、素直に思える。