さんげの世界23 「愛しき勤労奉仕学徒よ」の章5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 それからしばらくして、光成ヤエさんは正田篠枝と出会っている。

 

 夫は原爆死。その後の私は空白になった心境が続き、疎開地から焼野原になった広島に度々出かけておりました。そんな或る日、広島駅で破裂した水道管をみつけ、水を飲もうと近寄ると、そこに思いがけず山隅先生が居られたのです。「この人とも偶然会った」と側に居られる、病弱らしい人を紹介されました。その人が正田篠枝さんでした。(光成ヤエ「山隅先生との思いで」晩鐘社『晩鐘 70周年特集』1990.11)

 

 広島で文芸誌『晩鐘』を主宰した山隅衛(やまずみ まもる)は正田篠枝の短歌の師であり、光成ヤエさんも『晩鐘』に歌を寄せている。

 

 正田さんの名前は戦前の晩鐘誌で知っていましたし、私は山隅先生に高井正文先生と、夫の遺骨を確認した時の様子を、こまごま話しました。それから後に

 大きい骨は先生ならむそのそばに小さい頭の骨あつまれり

 という歌を正田さんが発表されたのです。あの時の私の話がそのまま詠まれていると、直感したのです。(「山隅先生との思いで」)

 

 正田篠枝は1947年に『さんげ』を出版した。その中にある歌

 

 大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり

 (正田篠枝『さんげ』私家版1947)

 

 「唉!原子爆弾」にある歌の「あまた(数多)の小さき骨」が「小さきあたま(頭)の骨」にと手が加えられ、子どもの姿がはっきり見えてきた。

 そして「あつまれり」。子どもたちはきっと先生に助けを求めたかっただろう、抱きしめて、「大丈夫だよ」と言ってもらいたかっただろうと、正田篠枝は想ったのではなかろうか。心の中に子どもたちが駆け寄り先生にすがりつく一枚の絵が浮んできて、それが正田篠枝の口からこぼれ出た時、「大き骨」の歌となったのではなかろうか。

 私家版の『さんげ』は100部とも150部ともいわれる少部数で、知り合いの限られた人にしか渡っていない。ヤエさんは山隅衛をとおして「大き骨」の歌を知ったかもしれないが、また、1954年に220名1753首の歌を収めた原爆歌集『廣島』に、『さんげ』からこの歌を含む18首が採られているので、これを見て知ったということもあり得る。

 1961年、正田篠枝も発起人の一人である「原水爆禁止広島母の会」が創刊した機関誌に、正田篠枝は自分の歌を10首載せている。その中に

 

 太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり

 (正田篠枝「私の苦悩と寂寞」原水爆禁止広島母の会『ひろしまの河 原爆十七回忌に捧ぐ』1961)

 

 知るかぎりここで初めて「大き骨」が「太き骨」に変えられた。子どもたちを抱きよせる先生のその腕に、正田篠枝の焦点が当たったように私には思える。

 そして1962年の『耳鳴り』所収の「さんげ」では、

 

 太き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり

 

 ゆっくり、ゆっくり読んでください、そうして先生と子どもたちの最期の姿を思い浮かべて下さいと、正田篠枝が柔らかく、語りかけてくるようだ。