平和大橋のたもとにある「広島市立高女原爆慰霊碑」
この章の最後の歌
目玉飛びでて 盲(めしい)となりし 学童は かさなり死にぬ 橋のたもとに
橋を渡って行けなかった子どもたちがいた。親に会えないままに死んでいった。たとえ会えたとしても、その飛び出した眼球では親の顔を見ることはかなわない。
橋のたもとで「学童」が多く死んでいたという手記はまだ読んだことがないのだが、女学生、中学生ならいくつもある。
元安川にかかる平和大橋の少し北側に当時「新橋」が架かり、さらに今の平和大橋とほぼ同じ場所に新しい「仮新橋」もつくられていた。そして本川の西平和大橋のところには「新大橋」があって、原爆が炸裂した直後、それらの橋のまわりには水を求めて多くの人が群がった。
広島市立第一高等女学校(「市女」)1年生だった森本幸恵さんは、建物疎開の後片付け作業が午前8時で休憩となり、材木町にあった誓願寺の大手(山門)のそばで休んでいるときに原爆の閃光を浴び、倒れてきた門の下敷きになった。今の平和記念資料館本館と噴水の間ぐらいの場所だ。
長いことかかり、大手の下から出ることができ、あたりの友だちを見れば、皆、目の玉が飛び出し、頭の髪や服はぼうっと焼けて、お父ちゃん助けて、お母ちゃん助けて、先生助けてと、口々に叫んでおりました。(森本トキ子「幸恵の言葉」『広島原爆戦災誌』)
市女の「経過日誌」にはこうある。
多クハ現場ニ失明状態ニテ昏倒或ハ家屋下ニ至リ下敷乃至ハ新橋、新大橋ニ向ヒ水ヲ求メテ移動、河中ニ飛ビ込ム、濠ニ入レル者又多ク、水槽ニ入レル者尠カラズ、河川ニ朔航セル六一四〇部隊発動機船ニ収容 似島ニ搬送サレシ者モ少数算セラル、但シ生存者ハ三、四名ニ止マリ…(『広島県史 原爆資料編』)
幸枝さんは仮新橋から400m南に架かる萬代橋のところまで逃げ、そこで兵隊に救助された。火傷が不思議に額と右手だけだったから、親のもとにたどり着くことができたのだろう。
しかし浴びた放射線は間違いなく、とんでもない量だった。1週間後、「お父ちゃん、お母ちゃん、お姉ちゃん永らくお世話に成りました」と言い残して亡くなった。(「中国新聞」2019.2.4)
6日夕刻、坂本潔さんと文子さんの夫婦は萬代橋あたりまで来ると声をからして市女2年生の我が子、城子(むらこ)さんの名を呼びつづけた。
私が万代橋のところにきますと、ちょうどお宮の前のところで、石垣に一〇人ぐらいかたまっていました。
「ここよ」と言ったので私は降りて行ったんです。そしたら女の子が、顔がはれていて目は全くの一筋、頭の髪はほとんど無い。皮膚は剥げて全部たれさがっているのです。負うことができません。私の子で築山家へ養女にやっていたんです。「むら子ちゃん、いいね、お父さんがこられて…」と誰れかが言ったのが、今も私の耳に残っています。(『広島原爆戦災誌』)
城子さんは翌7日午前1時に息を引きとった。
当日建物疎開作業に出た市女1、2年生541名は全滅。ほとんどの親が、子どもの遺骨を抱くことさえできなかった。(「中国新聞」2021.7.19)