被爆者が語りだすまで53~この世界の片隅で12 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 「広島子どもを守る会」のクリスマスの集いに参加した山岡秀則さんのところに、年が明けてすぐ、知らない女性から手紙と小包が届いた。手紙には「きょうから母さんと呼んでください」と書いてあった。

 

 私は、すごく、すごく嬉しく、「母さん!」と言ったことがない子どもでしたので、初めての手紙を何度も読み、夢みたいでした。(山岡秀則「原爆孤児となって」広島県被団協「空白の十年」編集委員会『「空白の十年」被爆者の苦闘』広島県原爆被害者団体協議会2009)

 

 初めて「おかあさん」と呼べる人ができた。自分のことを親身になって考えてくれる。山岡さんはうれしくてたまらなかった。「おかあさん」への返事でこう書いている。

 

 ぼくね、困ったことやわからないことができたら、すぐおかあさんに相談します。今までぼくには一通の手紙もくれる人がなかったのですが、今年になっておかあさんができて、たびたびお手紙をくださるようになったので、学校に行っていてもかえってみるのがとても楽しみです。(平井美津子『原爆孤児―「しあわせのうた」が聞こえる』新日本出版社2015)

 

 「広島子どもを守る会」は、「毎月千円の養育費と愛の手紙を」と、全国の家庭に「精神養親」を募るとともに、山口勇子や学生たちは毎日「原爆孤児」を訪ねて歩いた。

 立ったら頭がつかえる粗末な小屋の中で、和幸のお婆さんが永年の苦労話を語る時は喧嘩腰になる。手を振り上げ唾を飛ばし、だんだんと怒りがあらわになっていく。原爆に息子夫婦を奪われ、今は孫の和幸と二人暮らし。おばあさんの名前はとらさんといったが、やけを起こすたびに焼酎をあおるので、近所の人たちは「しょうちゅうとらやん」と呼んだりした。

 酔ってあばれるおばあさんを抱きかかえるのが和幸。「性格は至って暗く」と、山口勇子は聞かされていた。

 ひとりの青年が和幸の精神親になった。手紙とともにアルバイトでためた千円を毎月送ってきた。

 和幸とおばあさんの小屋には、電灯もついていなかった。精神親の青年はそのことを知ってかけ廻り、和幸が中学二年生の秋、電灯がひとつ小屋の中にぶら下げられた。

 

 ろうそくの夜から、はじめて明るい夜になった時、「和が小屋のまわりをぐるぐる走りまわってのう」とおばあさんは珍しく涙を見せた。

 板囲いの小屋のすきまから、明るい光が四方八方にこぼれるので、「外側までぱあっと明るいんじゃ」と、おばあさんも和幸もどんなに明るくなったか、くわしく説明するのだった。(山口勇子「あすにむかって」山代巴編『この世界の片隅で』岩波新書1965)

 

 電灯は家の中を明るくしたが、精神親の青年や多くの人の愛情は和幸の心の中を明るく照らした。

 山岡秀則さんも精神親の「おかあさん」に優しく見守られ、いつもニコニコしている「秀ちゃん」としてみんなから愛されて小学校を卒業した。

 しかし、中学2年の冬、山岡秀則さんは突然広島から姿を消した。