被爆者が語りだすまで54~この世界の片隅で13 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 山岡秀則さんは長崎県の対馬にいた。イカ漁をしている親戚が働き手として連れて行ったのだ。

 中学生に船に乗っての作業は重労働だったろう。しかも初めての日本海の荒波だ。けれど中学を卒業する時に、その親戚から言われた。「中学の学費と生活費を払え」と。山岡さんは有り金全部渡して親戚の家を飛び出した。

 「原爆孤児」が親戚から親戚に「たらいまわし」にされるというのも珍しい話ではない。山口勇子は『この世界の片隅で』の中で道子さんという「原爆孤児」の話を伝えている。道子さんは両親を原爆に奪われ、その後兄がどこかへ行ってしまい、姉は過労で倒れ入院していた。

 

 それから、私は一軒だけでなく、短い時は一、二ヵ月で又次々としんせきを廻されました。自分の目の前で親族会議が開かれ、私のことが討議されるので実にたまらない気持でした。しかし、おじ、おばたちも皆それぞれに生活がいっぱいで、私ひとりを引きとるのも大変だったのでしょう。(山口勇子「あすにむかって」山代巴編『この世界の片隅で』岩波新書1965)

 

 道子さんの場合、中学を卒業するころに姉の健康が回復して結婚し、道子さんを引きとってくれた。そうでなかったら道子さんは内気で暗く、ひがみっぽい性格のまま、ひとり生きていかなければならなかった。

 けれど姉夫婦と暮らすようになった道子さんは、よく笑い、よくしゃべる明るい性格を取り戻すことができた。そして高校から大学に進学することもできた。

 

 「私の幼かった頃のみじめさを、もう決して再びどの子どもの上にもくり返してはならない。又、姉夫婦をはじめたくさんの人の援けで私はここまできた。だから大学で精いっぱい学び、考え、そして社会の真実の発展のために闘い、つくしたいのです」入学が決まった時、広島に来た道子はこう言った。(山口勇子「あすにむかって」)

 

 山岡秀則さんは3、4年ほど外国船に乗って働いたが、18歳で広島に帰り自動車工場の臨時雇いになった。それから20年懸命に働き、結婚し、二人の子どもを育てた。

 山岡さんに転機が訪れたのは2001年9月11日の「アメリカ同時多発テロ」と、その報復としてのアメリカによるアフガニスタン侵攻だった。60歳の山岡さんに、アメリカの、アフガニスタンの、親を亡くした子どもたちの姿があの日の自分と重なった。

 

 秀則は言う。

 「数え切れない人の厚意で生かされてきました。ようやく恩返しのときを迎えているんです…」(平井美津子『原爆孤児―「しあわせのうた」が聞こえる』新日本出版社2015)

 

 山岡さんは語り始めた。自分や家族の被爆。両親を失った悲しみ。多くの人から受けた恩。そして何よりも、戦争とはいかに悲惨な結果をもたらすものかということを。

 そして多くの人に生かされてきたと感じるからこそ、道子さんも山岡さんも人と人と心から繋がっていくことを求めた。