山岡秀則さんは3歳の時原爆に遭った。家は爆心地から4kmほど離れていたが原爆の爆風で窓のガラスが飛び散り、背中に突き刺さった。
父親は中学の教員で、その時市内中心部で生徒と一緒に建物疎開作業にあたっていて火傷を負い、何とか家まで帰ってきたものの、10日後に苦しみながら死んでいった。母親はその年の4月に建物疎開作業中の事故で亡くなっている。
そして秀則さんが5歳の時、秀則さんと秀則さんの姉の面倒を見てくれていた祖父が亡くなる。3歳上の姉は誰かに引き取られてそれっきりになり、秀則さんは親戚の家で暮らすことになった。
親戚の家の人たちは秀則さんに冷たくあたった。食事は家の者が食べた残りをひとりで食べた。寝場所は電気もなく雨漏りがする離れの小屋だった。
学校から帰宅すると、毎日、数十羽のニワトリ小屋の清掃をし、フンを山の畑に肥料として持って行き、帰りは野菜類、特に重いカボチャ、サツマイモ、ジャガイモを持ち帰るのです。それが済むと、リヤカーで製材所に行き、廃材を家に運ぶのです。
それをサボると夜食はないのです。ばあちゃんが、後ろから私の後頭部を竹の根っこの棒で叩くのです。(山岡秀則「原爆孤児となって」広島県被団協「空白の十年」編集委員会『「空白の十年」被爆者の苦闘』広島県原爆被害者団体協議会2009)
小学校では、4年生までは担任の先生が痩せ細った山岡さんを心配していろいろ気をつかってくれたが、5年生になって新しくなった担任は違った。
担任はいつも会費が遅れるので、クラスメートの全員を前にして、「山岡は、両親がおらんから、会費を持って来ない」と言って、冷たい目で見る。その一言で、皆に両親がいないことがバレた。私は、子供なりに心がすごくキズつけられた。また心が痛んで、学校に行くのが嫌になった。(山岡秀則「原爆孤児となって」)
学校に持っていくお金については小学校5年生の大高恵子さんが『原爆の子』に書いている。
私は、学校のきゅうしょくだいだって、なかなかだせないので、まってもらいます。私はまい朝、
「お金まだなの」
ととうと、お父さんは、
「もっていかれるよ」
といって、お金をもっていかしてくださいます。私はそのことばをきくと、うれしくてたまりません。(長田新編『原爆の子―広島の少年少女のうったえー』岩波文庫)
恵子さんだって、お金を持って行けない時はとても辛かったはずだ。山岡さんはさらに、「お前は働きが少ないので、金は出せん」と、家の人たちから嫌がらせの言葉を投げつけられたのだ。
「母さん、僕さびしいよ、つらいよ」と、山岡さんは海に入っていった。
けれど、山岡さんの首根っこをつかまえて海から引っぱり上げてくれた人がいた。自分も家族全員原爆に殺されたというその人は、「二度と死ぬなんて思うなよ、死んだ両親を大切に」と励ましてくれた。
その年のクリスマスイブ。山岡秀則さんは「広島子どもを守る会」に初めて参加した。