被爆者が語りだすまで51~この世界の片隅で10 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 「おこりじぞう」で知られる山口勇子もまた正田篠枝の親しい友の一人だった。

 

 わたしの 友のなかには 戦争のため 原爆のために

 孤児になった 子供を見守って 子供を守る会で

 活躍しておる 女(ひと)がおります(正田篠枝「ひろしまの河」部分『耳鳴り』平凡社1962)

 

 山口勇子は広島市郊外の井口村(現 広島市西区)に疎開していて助かったが、市内中心部の大手町に暮らしていた自分の両親と夫の両親は原爆に命を奪われた。

 突然に襲ってきた親しい人たちの死、そして焼け跡をさまよう「ばけもの」とされてしまった人たちを目の当たりにして、山口勇子の心の中は空っぽになってしまった。人間の当り前の感情を持ったままでは、あの焼け跡にたたずむことは到底できることではなかった。

 

 あの焼け跡は、人間の世界ではなかった。かといって、死の世界でもない。ばけものの世界と化していた。だからその中を歩くわたしも、ばけものとなって、悲しみも、恐れも、まして怒りなど、なにもみな忘れていたのだ。

 何か月か後、やっと人間らしい感情がわたしにもよみがえってきたらしい。ある日、始めて、しかも突然、胸の奥からかたまりが飛び出してきて、大声をあげて泣いた。(山口勇子『かあさんと呼べた』草土文化1964)

 

 あの焼け跡の光景はいつまでも山口勇子に襲いかかってきた。1952年、勇子のもとに「精神養子運動」に加わってほしいとの話が持ち込まれてきたとき、山口勇子は決心した。原爆から逃げるのではなく立ち向かっていくしかないと。

 1953年2月22日、「広島子どもを守る会」が生まれた。会長が森瀧市郎、副会長が山口勇子。二人とも「子どもを守る会」に参加したことから原水禁運動にとびこみ、やがてその先頭に立ち、そして後に二人は袂を分かつことになる。

 「子どもを守る会」の目的は「原爆孤児」を経済面で、そして精神面で支える人の輪を広げることだった。元をたどれば、1949年にアメリカのジャーナリストであるノーマン・カズンズが五日市の「広島戦災児育成所」を訪れて「原爆孤児」の実態にふれ、アメリカで「精神養子運動」を呼びかけたことに始まる。それは、アメリカ人が「原爆孤児」と法的に養子縁組を結ぶことは当時困難であったので、精神的な養子として養育費を送ろうという運動だった。

 ノーマン・カズンズはジョン・ハーシーの『ヒロシマ』を読んですぐさま、「広島と長崎の犯罪に対して、わたしたちは人間として責任を感じているだろうか」と、原爆投下の非人道性を糾弾した人物だ。そして自ら「原爆孤児」のところにやってきて手を差しのべた。

 その人道的精神に触発されて広大教授の長田新が「日本人の手による精神養子運動」を呼びかけ、学生たちが走り回った。「広島大教育学部東雲分校の子どもを守る会」は運動の趣意書で、「市民の各家庭に引き取られている約千余名の原爆孤児のうち、およそ二百名の子どもたちは、ほとんど生存さえ不可能な状態に追い込まれていて、救援は一刻を争う問題となっている」と訴えている。(中国新聞社『炎の日から20年―広島の記録2』未来社1966)

 

 原爆にすべてをもぎ取られた子どもたちの現実が改めて世の注目を浴びた。