被爆者が語りだすまで49~この世界の片隅で8 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 ソ連の核実験再開が伝えられると、広島県原水協の森瀧市郎理事長(当時)はソ連に対して核実験再開を中止するよう強く要請するとともに、アメリカやイギリスにも「核実験競争を激化させるような方向は厳に戒められるよう」求めた。それにもかかわらずアメリカが大気圏核実験再開を表明すると、吉川清とともに原爆慰霊碑前で座り込みをはじめ、この座り込みには多くの人が加わっていった。

 しかし、日本原水協内部ではソ連の核実験をアメリカ帝国主義に立ち向かうものだとして支持する人たちも勢力を拡大して対立が激しくなり、ついには原水協も被団協も二つの組織に引裂かれてしまった。

 「この子の上に原爆を落とすな」と訴えた「原水爆禁止広島母の会」の中にも対立が持ちこまれた。正田篠枝は「罪人」という詩の中でその時の苦悩を歌っている。

 

 原爆のむごたらしさを

 わたしは見たんです

 人間の社会にこんなことがまたと

 あってはならないと

 泣いてばっかりいた友達と

 組織をつくってみたんです

 努力足らずで力無く ついに

 駄目になったんです

 そのためにひとから受けたものは

 危険なものどもという汚名

 

 白い目で見られるのも

 いいものではないけれど

 それにもまして辛いのは

 もっとも熱心なこころが

 もうひとりの熱心なこころと妥協ができず

 離れていくことなんです

 組織の外では親しく身を寄せあうことが

 できるお互いなのに

 だんだん遠くなっていくのです

 心の底の思いは始めと同じなのに

 人間の良き意志がそうさせてしまうとは

 なんということでしょう

 きっと何かが間違って

 いるにちがいないのです

 

 わたしたちがこれまで為(し)てきたことを

 痛いおもいで考えなおして

 みなければならないのです

 邪慳なわたしよ

 卑怯なわたしよ

 忘れっぽいわたしよ

 もう二十年たったあの日のことをしっかり

 思い出し為さねばならないことがあるんだのに

 核実験がいくたびも繰り返されているんだのに

 今日も放射能をふくんだ雨が降っていますのに

 新聞をよんでもテレビ・ニュースを見ても

 わたしは罪人のように

 だんだん言葉すくなくなっていくのです(正田篠枝「罪人」正田篠枝遺稿編集委員会『百日紅―耳鳴り以後―』文化評論1966)

 

 この詩は最初、広島県詩人協会が1965年7月15日に刊行した『広島詩集』におさめられた。正田篠枝が息を引きとった一か月後のことである。

 篠枝を慕う人たちは、正田篠枝が営む「平野町河畔荘の扉はいつでも開かれていて人を拒むということがなかった」(『百日紅』あとがき)という。一緒になってしなければならないことが沢山あったのだ。