被爆者が語りだすまで50~この世界の片隅で9 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 正田篠枝は1965年6月15日に自宅で息を引きとった。正田篠枝の歌の友であり、篠枝を物心両面で支えた東京の月尾菅子は訃報が伝えられるとすぐに飛行機に飛び乗り、告別式の2時間前に篠枝の自宅についた。篠枝の棺の前には、栗原貞子が「その前に仕えるように黙坐」していたという。(月尾菅子『正田篠枝さんの三十万名号』藤浪短歌会1968)

 栗原貞子は1962年に、ソ連の原爆保有を容認する意見に我慢ができず、正田篠枝らと共につくった「原水爆禁止広島母の会」を抜けた。正田篠枝が詩「罪人」で言う「それにもまして辛いのは/もっとも熱心なこころが/もうひとりの熱心なこころと妥協ができず/離れていくことなんです」の「もっとも熱心なこころ」とは、栗原貞子のことではなかろうか。

 その後も、正田篠枝は栗原貞子を信頼し続けた。

 

 知らぬひと栗原貞子を悪く云(い)ふわれは黙(もだ)して良きを書かなむ(中国新聞「戦後70年 志の軌跡 第5部 栗原貞子〈3〉」2015.12.18より)

 

 そして正田篠枝は、自分こそが「母の会」をだめにしてしまった張本人だと、詩の中で懺悔するのだった。

 栗原貞子は正田篠枝の告別式の後、火葬場まで棺に付き添った。そして1967年に出版した『私は広島を証言する』の中で次のように回想し、また終生正田篠枝について語り続けた。

 

 正田さんは大量屠殺をまぬがれて二十年目に亡くなられたが、私は死の前年の秋、暗い夜の平和公園を篠枝さんと二人でさまよい歩き、三吉の碑や慰霊碑、原爆死者の納骨堂のある土饅頭の形をした納骨堂などに詣った。私は今でも、その時、篠枝さんと一緒にあの世をさまよい歩いた思いがするのである。(栗原貞子『私は広島を証言する』詩集刊行の会1967)

 

 栗原貞子は広島を背中に感じながら前へ前へと進んでいった詩人である。組織から飛び出して孤立しくじけそうになっても、また新たな連帯を求めて歩みを進めた。

 

 「お前は一体何の鳥だ」

 「わたしは一体何の鳥だ」

 広場でむらがってうたっているうちに

 私は咽喉がやけるように渇き出し

 わたしの歌を失いそうだった

 わたしがたとえ黒いカラスでも

 カラスはカラスの歌をうたいたい(栗原貞子「からす」部分『私は広島を証言する』)

 

 私は干されても死にはしない

 私には果てしない海がある(栗原貞子「渚にて」部分『私は広島を証言する』)

 

 そのとき栗原貞子の眼に映ったのは、ベトナムの戦火とそれに加担する日本の現実だった。

 

 焼かれたことはあるが

 自らを焼いて抵抗したことはない

 いつも受身で

 ずるずる引きづられて来てしまった私達

 今も日本列島に基地点々、

 ベトナムの死臭をまきちらしながら(栗原貞子「問い」部分『私は広島を証言する』)

 

 栗原貞子は2005年に92歳で亡くなる最後まで、反核反戦運動の最前線に立ち続け、「果てしない海」を渾身の力で泳ぎ続けた。

 

 私は干されても死にはしない

 私には果てしない海がある

 私は渾身の力をふりしぼり

 渚から海へ跳躍する(栗原貞子「渚にて」部分『私は広島を証言する』)