被爆者が語りだすまで48~この世界の片隅で7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 升川貴志栄さんは鶴見町で建物疎開作業中に原爆の閃光で火傷を負い、爆風に吹き飛ばされて右足を骨折した。火が迫る中もう逃げられないと観念したが、古い松葉づえを見つけて、どうにか自宅に戻ることができた。しかし広島一中1年生だった息子の宗利君はいくら待っても帰って来なかった。貴志栄さんは、自分の命を救った松葉づえは、もしかしたら親思いの宗利君が投げてよこしてくれたのではないかと思うのだった。(広島平和記念資料館平和データベース)

 1960年1月、原水爆禁止のために日常的な学習や活動をしていこうと、升川貴志栄を中心に「原水爆禁止広島母の会」が発足した。主なメンバーは、栗原貞子、正田篠枝、日詰しのぶ、山口勇子、小西信子、森滝しげ。1961年には栗原貞子が編集人になって機関誌『ひろしまの河』を創刊した。

 正田篠枝は『ひろしまの河』創刊号に「私の苦悩と寂寞」という一文を載せている。その中で篠枝は原爆がいかに残酷かを語り、戦争と原水爆の禁止を訴える。

 

 この様なことが人間の世にあってたまるものか、たまりません、やりきれません、絶対にいけません、どんなことがあっても、戦争はしないでください、原水爆は造らないでください、使用しないでください。(正田篠枝「私の苦悩と寂寞」原水爆禁止広島母の会『ひろしまの河―原爆十七回忌に捧ぐー』1961.6.15)

 

 しかしそのころ原水禁運動は嵐の海の中にあった。1960年に改定された日米安全保障条約は、アメリカ軍の日本駐留が恒常化され、アメリカ軍の極東における軍事行動に巻きこまれる危険性が高まるとして、「60年安保闘争」と呼ばれる空前の規模の抗議運動がおこった。

 日本原水協や広島県原水協も、安保条約は日本の核武装や海外派兵への道を開くものだとして、安保闘争の輪に積極的に加わった。しかしそれに反発した自民党や当時の民社党は原水協から離れて別組織をつくり、世間では原水禁運動を「アカ」となじり非難する動きが強まっていった。

 

 誰でも心から、希望、念願している平和はこの世には、実現できないものでありましょうか。平和を希む、当り前のことが、何故、アカだと、云われて嫌われるのでありましょうか。わたしは何にも、わかりません。わからないままに、フカカイで苦しく悩んでおります。この苦悩と寂寞は深刻になるばかりであります。(正田篠枝「私の苦悩と寂寞」)

 

 そして嵐はますます強くなっていった。1960年2月13日、アメリカ、イギリス、ソ連に続いてフランスが原爆実験を行って核保有国となると、1961年8月30日には1958年以来核実験を停止していたソ連が突如実験再開を宣言した。アメリカも対抗して核実験を再開し、1962年3月、当時のケネディ大統領は太平洋のクリスマス島で大気圏内核実験を行うことを発表した。

 そのころ、子どもは親から、雨に濡れてはいけない雪を口にしてはいけないと言われた。放射能が混じっているからと。