1955年8月6日、原水爆禁止世界大会の壇上に被爆者代表として立った高橋昭博さんは、原水爆禁止と被爆者救済のためには自分自身もっと積極的に運動に参加して行こうと決意した。
翌年3月18日に開かれた「原爆被害者広島県大会」では国会に被爆者援護法の立法化を求めて45名の国会請願団広島代表が選出され、高橋さんもその一員となった。
3月20日、高橋さんたちは当時の鳩山一郎首相と面会し水爆実験禁止や被爆者医療国庫負担を陳情した。高橋さんはその時鳩山一郎のつぶやいた言葉が忘れられない。一人一人の顔を見ながらしきりに「かわいそうに、かわいそうに」とつぶやいていたのだ。
高橋さんはその時、鳩山一郎が自分の戦争責任を自覚していたからこその言葉ではなかったかと思った。しかし、それはいくらなんでも鳩山一郎を買いかぶりすぎていたのではなかろうか。
高橋さんも、1959年10月に政府や国会に被爆者援護法を請願した時のことを思い出すと怒りがこみあげてくるという。応対に出てきた大蔵省の政務次官が言うには、予算というものは大蔵省をねじ伏せて分捕っていくものだ、「だから被爆者のみなさん、あんた方も力をつけてやってきなさい」。
それが政治だというのだった。そして、組織の力が弱ければ被爆者はいつまでたっても救われることはないというのだった。政治の世界では、「かわいそう」とは「相手にしなくていい」という意味かも知れない。
原水爆禁止や被爆者援護を実現するためには、言われるまでもなく、多くの人の力を結集して世論を動かし政治を変えていかなければならない。1955年8月6日の「原水爆禁止世界大会」を受けて11月に原水爆禁止をめざした「日本原水協」が結成され、1956年3月18日の「原爆被害者広島県大会」と被爆者による国会請願から広島県内の原爆被害者組織が結集して5月27日に「広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)」が生まれた。8月には長崎で全国組織の「日本被団協」が結成された。
その成果は大きなものだったが、一方で政治的信条を異にする団体、組織の対立が次第に深まり、ついには原水禁運動も被爆者運動も分裂していくのだった。
川手健は1953年3月、「原爆被害者の会」の事務局長として半年間の運動を総括する中で、運動の未来を予言するかのような一文を書いている。
何分幹事会そのものが弱体で、実行機関になり得ないので仕事は遅々として進まない。何よりも資金が全然ない。だが私は会を何かの団体なり個人の力にすがって作っていこうとは思わなかった。勿論協力してもらわなくてもよいというのではない。積極的に協力して貰わなければならないのは明らかなことなのだが、被害者がまだ充分結集されていない前に他の力が会を制約してしまい、それで被害者の意志が自由に表明されなくなりはしないかを恐れたからである。(川手健「半年の足跡」原爆手記編纂委員会『原爆に生きて』三一書房1953)
川手健にとって原爆被害者の団結が阻害されるようなことは絶対にあってはならないことだった。だが、原水禁運動や被爆者の組織化が進む中でまず弾き飛ばされたのは、川手健その人だった。