昨年85歳で亡くなられた淨寳寺前住職の諏訪了我さんは、原爆がさく裂した時は中島国民学校6年生で、県北の双三郡三良坂町(現 三次市)の光善寺に集団疎開していた。原爆で家族全員を失った。
夕暮れになると、みんなお寺の石段に腰をおろし、広島の方の空を見つめながら、シクシクと泣く日が続きました。そして、肉親や親戚の人が迎えに来るごとに、一人二人と疎開児童の数は少なくなりました。(諏訪了我「戦争・被爆の証言」淨寳寺ホームページ)
諏訪さんは親戚に引き取られて9月16日に広島に戻った。しかし、中島国民学校の疎開児童の中には12月になっても、誰にも迎えに来てもらえない子どもたちが何人もいた。
今は庄原市となっている比婆郡の村に疎開していた大手町国民学校の子どもたちも、何人かの子どもたちが迎えの来ないまま12月になっても疎開先に残っていた。そこに広島市から指示があった。佐伯郡五日市町(現 広島市佐伯区)に開設されたばかりの広島戦災児育成所に入所するようにというのだ。大手町国民学校の7人の子どもたちが入所したのは12月23日だった。
広島戦災児育成所をつくったのは山下義信さん。比治山国民学校の教室を使った「比治山迷子収容所」の悲惨な状況に心を痛め、一念発起したという。
当時比治山国民学校の先生だった斗桝良江さんが迷子収容所の日々を回想されている。
八日の午後であった。
市の社会課長さんが子供を一人だいて来られた。
「今日から、此の学校を迷子の収容所にするから、子供を預ってもらいたい。」との話なのである。
見れば二歳くらいの女の子、すっぱだかにワイシャツをひっかけて抱いて居られる。この手をだき取ったものの、私達は顔を見合せて途方にくれた。(「記録 比治山国民学校迷子収容所 五日市戦災児育成所」『広島原爆戦災誌』広島市)
迷子収容所には原爆で家族と離れ離れになった子どもが次々と送られてきた。そして、毎日のように自分の子ども、孫を探して多くの人が訪れた。嬉しい再開の場面に何度も出会った一方、その様子を見て日に日に表情が暗くなっていく子どもたちがいた。そして中には「原爆症」で、親にあえないまま死んでいく子どもたちもいた。
下痢のひどい子供らは、頭の髪がうすくなり、次第にやせ衰えて、次々と倒れていった。そのたびに私達は、運動場の片隅に運び、わら木を重ねた上にのせて焼いた。その数は遂に十一名になった。 (中略)
今思っても不思議でならないのは、誰一人、つらい苦しいと訴えたものがいなかった事である。みんな静かな最期だった。しかし、もしそこに母がいたら苦しみを訴えたであろうに。(「記録 比治山国民学校迷子収容所 五日市戦災児育成所」)
斗桝さんは亡くなった子どもが11名と書いておられるが、広島市の『被爆70年史』は、迷子収容所が受け入れた子どもは155人ないし200人とし、どれだけの子どもが親と再会できたのか、どれだけの子どもが亡くなったのか、はっきりしたことはわからないとしている。