原爆と念仏37~広島戦災児育成所2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1945年8月6日、砲兵少尉の山下義信さんは五島列島の福江島にいた。新型爆弾により広島壊滅との報せを聞いたのは11日ごろで、山下さんの妻と6人の子どもたちは絶望と思われ、せめて一人だけでも生き残ってほしいと願うしかなかった。

 山下さんの最初の兵役は1918年のシベリア出兵だった。出兵が終わると、百貨店経営などにかかわった後、信仰心の篤い母の遺言で浄土真宗の僧侶となり、今度は布教にひたすらはげんだ。

 ところが1944年12月、山下さんは何と49歳で志願して再び軍人となった。配属されたのは佐世保重砲兵隊で、翌年3月には鹿児島県の串良に移動した。特攻隊の基地があった場所である。

 山下さんはもとより死を覚悟していただろう。後の手記には「お国のために一命をささげる決心をした」とある。(新田光子『広島戦災児育成所と山下義信』法蔵館2017)

 悲しむ妻と幼い子どもたちをおいて戦地に向かった自分は生きながらえ、残した家族は無残な最期をとげたに違いないと思えば、山下さんは悔やんでも悔やみきれなかった。

 

 嘸(サゾ)カシ余ヲ恨ミ、無情ノ父ヨ、冷酷ノ夫ヨト心淋シク死ニ行キツアラン…(山下義信「育成の若干の記録」新田光子『広島戦災児育成所と山下義信』)

 

 実際には山下さんの家族は全滅を免れた。が、被害は大きかった。

 長女の岑子(ぎんこ)さんは当時5歳。当時の南観音町に暮らし、末っ子の赤ん坊を背負った母親の禎子さんが勤労奉仕に出かけるのについて行って、天満川の土手の上で原爆の閃光を浴びた。

 

 気がついたときには、家のそばの畑の中にいました。多分、母に抱えられて帰ったのだと思います。子どもですから、夏はほとんど裸です。両腕、両足、胸、顔にひどいやけどをしていました。上を向いていたのでしょう、顔のやけどが一番ひどかったです。(山下岑子「私の被爆体験」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 長男の晃さんは広島二中の2年生で、市内電車に乗って広島駅裏の東練兵場での開墾作業に向かう途中、荒神橋の上で被爆した。ガラス傷で顔面血だらけになり、炎に追いかけられながらも、なんとか家まで帰ってきた。母親と妹は大火傷をして呻いていた。

 

 翌日から母と妹の看病が始まりました。医薬品不足の中で、「やけどにはジャガイモをすってつけたらよい」「ドクダミ草を飲んだらいい」など、どこからともなく情報が流れてきました。一時間おきに傷口から出る膿を取り除きましたが、母は激痛に苦しんでいました。幼い妹も同じ状態でした。元気なのは私一人でしたから、戻らない弟の捜索にも行かなければなりません。(山下晃「語れぬままに」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 二男の慧君は市立造船工業学校1年生だった。動員されて材木町、今は平和記念資料館があるあたりで作業していた生徒は全員消息不明。あとには弁当箱や焼けた服が残るだけだった。

 晃さんがいくら探しても、やはり慧君の遺体も遺品も見つからなかった。

 お母さんは、慧君が帰って来るのをずっと待ち続けた。慧君がいつ帰ってきてもいいように、玄関のカギを決して閉めることはしなかった。

 父親の山下義信さんが復員してきたのは、その年の10月だった。