原爆と念仏35~学童疎開6 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 仙徳寺に疎開していた光道国民学校5年生の担任早稲田先生は広島から帰ってすぐに子どもたちを集めた。

 

 二日後、寺に帰られた先生は全員を集められた。「みんな気持ちを落ち着けて聞いてくれ。現地をみる限り、君らの家族はほとんど助からなかったのではないか…」と沈痛な表情で報告され、あまりのショックに肩を寄せ合い、全員がとどまることなく号泣したものである。(福間喬介「五十キロ、深夜の夜逃げ」広島光道学校同窓会『広島光道学校の想い出』)

 

 ただ、一週間後ぐらいから家族の無事を知らせる手紙も来るようになり、その後半数の子どもは家族がそれぞれ家に連れて帰った。しかし、中には家族全員を原爆に奪われた子もいたのだ。それはどこの学校でも同様だった。

 当時神崎国民学校5年生だった坂口博美さんは山県郡本地村(現 北広島町)の専教寺に集団疎開していた。自宅は細工町。まさに爆心直下である。

 博美さんが家族6人の全滅を知ったのは9月7日の夜だった。

 

 その夜、突然呉の叔父が、私の疎開先のS寺に訪ねてきた。そして私を見るなり、靴も脱がずに家族の死を知らせた。私は泣いた。声をあげて泣きつづけた。先生も泣かれた。寮母さんも、エプロンを顔にあてて泣いていらっしゃった。(長田新編『原爆の子―広島の少年少女のうったえー』岩波文庫)

 

幟町国民学校3年生の坂井千寿江さんも、広島から戻った先生から、父も母も、生まれて7か月の妹も死んだと聞かされた。その時は驚きのあまり出なかった涙が、後になって、思い出したようにこぼれてきた。

千寿江さんにとって、もう一つ悲しいことがあった。それは、家族に引き取られて一人また一人と友だちが広島に帰っていくのだ。とても仲の良かった友だちと別れるのは本当につらかった。

 

…そのお友だちが帰られるまぎわには、本当は、喜んであげねばならぬのに、私はお寺の陰にかくれて泣いていました。そうして「さようなら」も言えませんでした。その日からというものは、今までよりも一層悲しい、そして、さみしい日を送りました。(『原爆の子』)

 

 見守る先生たちも、さぞや辛かっただろう。

仙徳寺と同じ村の浄円寺に疎開していた光道国民学校4年生の担任、当時33歳の尼子成美先生も原爆がさく裂した翌日から毎日自転車をこいで広島に出かけた。そして子どもたちに家族の安否を知らせたのだった。

 原爆に家族を奪われ「原爆孤児」となった人のことをあちらこちらで聞く。村内の家の養子となった人、村の寺の小僧になった人もいるという。広島に帰って五日市の戦災児育成所に入った人がいる。行く先知らずとなった人もいる。

 尼子先生の学級にも、家族を失って叔父だけが唯一の身よりとなった子どもがいた。その人が先生の思い出を書いておられる。

 

 原爆孤児となった私にとって、唯一人の生存者である叔父が疎開先まで迎えに来てくれた時、先生から「頑張れよ。一生懸命生きるんだよ」と励まされたそのお言葉と共に、あの慈愛に満ちた眼差しは一生涯忘れる事はないでしょう。(広島光道学校同窓会『光道 第7号』2003)

 

 光道国民学校の子どもたちは、9月14日に、5か月過ごした寺を後にした。