1951年、吉川清さんはケロイド整形手術を受けるために白島の自宅跡地と妻名義の山林を売った。原爆医療法が施行されるのは1957年、国民皆保険が実現するのは1961年で、当時被爆者の医療に対する援護は皆無だった。
ケロイドに傷ついた若い女性を救うため、谷本清牧師は東京であらゆるつてを頼って世間の注目を集め援助を得るべく奮闘した。東京見物、ラジオや雑誌の座談会、そして巣鴨拘置所に収容されている戦争犯罪人の慰問。
牧師にとって「赦す」ということは大切なことであったかもしれない。
しかし、いつ焼夷弾や爆弾が雨あられと投下されるかもわからない市内中心部に8000人もの子どもたちを集中させることに当初学校関係者は皆反対したという。軍部や政府はそれを無視して建物疎開作業を強行したのだった。
これ以後吉川清さんは谷本牧師と袂を分かつことになる。
それでも谷本牧師の取り組みは世間の耳目を集め、「原爆乙女」と呼ばれるようになった被爆女性は東大病院に入院して治療できることになった。9月には高峰秀子、長谷川一夫など当時の大スターが募金サイン会を開き三日間で約40万円集まった。ラーメン一杯25円の時代である。
12月には大阪の阪大病院などに12人の女性がケロイド治療を受けることになり、広島でも被爆者の無料の治療が始まった。被爆者医療への関心の高まりは1957年の原爆医療法制定につながっていく。
しかし、すべてよかったわけではない。
今まで、忘れられていた原爆娘
それが新聞によって
一しゅん明るみに出た。
私たちは、今、日本中
いや、世界中から
注目をあびている、
だが、みせものになるのは、いやだ、
(中略)
あれから七年
広島の町から忘れられてきた、原爆
だけど私たちは、永久に忘れない、子々孫々までも忘れられない。
今では原爆娘という名を頂き、
世の人々から、好奇の目で見られている、
町を歩くと、じろじろと人の目のうるさいこと
(尾形静子「原爆娘の一人ごと」部分『原子雲の下より』)
可哀想な「原爆乙女」への同情は一過性のものでしかなく、かえってねたみや反発も生んだ。
しかし、ケロイドの若い女性たちの中にはその後、自ら「原爆乙女」から脱却する新たな出会いに恵まれる人もでてきた。