立ち上がった人たち47  | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1956年3月20日朝、「国会請願デー」に参加する広島県と長崎県の代表団が東京駅に着くと、そこには驚くほど多くの報道陣が待ち受けていた。次々とフラッシュがたかれる中、高橋昭博さんは、これだけの関心があれば自分たちの要求はそう遠くない時期に実現するかもしれないという期待に胸をふくらませた。

 阿部静子さんは、写真を撮られることにいい気がしなかった。

 

 顔のやけどの痕が真っ赤でしたからね。我慢したのでしょう。しょうがないですね。今でもライトを当てられると、顔のデコボコが一層目立つ。新聞・テレビに載ったものを見たら、さめざめと泣くみたいな気持ちになります。しかし、原爆の傷を受けた証人として一生生きていかなければならないという勇気も生まれてきたのでした。苦しさ、悲しさの中からであり、皆さんと行動する中で生まれたんだろうなと思います。(阿部静子+「ヒロシマ通信」研究会『被爆者 阿部静子は語る』「ヒロシマ通信」研究会2024)

 

 代表団は国会議員や衆参両院議長、そして鳩山一郎首相を訪ねて陳情した。首相に面会できたのは、市川千代子さん(ビキニ事件の後1954年5月15日に開催された「原爆・水爆禁止広島市民大会」の発起人の一人)。村戸由子さん。高橋昭博さん。長崎の山口仙二さん。高校生の坪中征市郎さんの5人。面会時間は5分だった。

 

 鳩山首相は、この間、ひとりひとりの顔を見ながらしきりに「かわいそうに、かわいそうに」とつぶやき続けた。当時、私は現職の首相に会うということで、それだけで緊張してしまっていた。だから、このことばがなにを意味するかをそのときは考えることはできなかった。(高橋昭博『ヒロシマ、ひとりからの出発』ちくまぶっくす1978)

 

 鳩山首相は面会中ずっと市川さん、村戸さんの顔から目を離そうとしなかった。高橋さんはそのことを思い出して、鳩山首相には自責の念があるように思えたと書いている。そうかもしれないが、私はそうでないように思う。自責の念があるなら、どうして「申し訳なかった」の一言がなかったのか。

 鳩山一郎は1930年代から有力な政治家だったが、「統帥権干犯」問題や「滝川事件」で右翼や軍部の台頭に力を貸した。戦後は「憲法改正」による再軍備を目指したことで知られる。ただひたすら日本の国力増強を求めた政治家ということができないだろうか。敗戦直後に原子爆弾の投下は国際法違反の戦争犯罪であるとの談話を朝日新聞に発表して、朝日新聞がGHQから48時間の発行停止を命じられたことがあったが、これもアメリカと張り合う気持ちが強かったためのように思える。

 問題は、鳩山一郎が国民に対してどれだけ戦争責任を感じていたかだ。市川さんや村戸さんの顔の傷も全てアメリカが悪いからであって、あの日、身を隠すところが何一つない市の中心部に大勢の民間人、子どもを強制的に集めて建物疎開作業に従事させたことなど全く関心がなかったのではあるまいか。要するに、「かわいそうに」ということは、自分が悪いとは一つも思っていなかったということではあるまいか。