峠三吉『原爆詩集』より17~人影の石3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 『きみはヒロシマを見たかー広島原爆資料館ー』には、石段に影を残したのは私の母ではないかと名乗り出た越智幸子さんの話を紹介している。母親のミツノさんがその日の朝早く住友銀行に行き、その後行方不明になった。銀行の前にはミツノさんの持っていた火災保険証書が落ちていたが、それ以上のことはわからない。それでも幸子さんは「人影の石」の人物は自分の母親であると信じているという。

 

 いまも時折資料館を訪れては、石段の人影と対面するが、年々影がうすくなっていくのが越智さんにとっては寂しくてたまらない。母親がそのまま永久に消えてしまうような気がするからである。(高橋昭博ほか『きみはヒロシマを見たかー広島原爆資料館ー』日本放送出版協会1982)

 
 峠三吉は『影』という詩で「人影の石」を取り上げている。1950年、三吉はすでに石の影は薄れていると嘆いている。
 

 てんと無関心な市民のゆききのかたわらで

 陽にさらされ雨に打たれ砂埃にうもれて

 年ごとにうすれゆくその影

 (峠三吉「影」部分『原爆詩集』)

 
 三吉にとって「人影の石」の黒い部分は、ただの影でも単なる有機物でもない。
 

 うすあかくひび割れた段の上に

 どろどろと臓腑ごと溶けて流れた血の痕の

 焦げついた影

 (峠三吉 同上 なおこの部分を岩波文庫版第1刷では「臓腑で」と誤植している)

 
 なぜ人影は薄れていくのだろうと三吉は問いかける。
 

 ああ、あの朝

 えたいの知れぬ閃光と高熱と爆煙の中で

 焔の光りと雲のかげの渦に揉まれ

 剥げた皮膚を曳ずって這い廻り

 妻でさえ子でさえ

 ゆきあっても判らぬからだとなった

 ひろしまの人ならば

 此の影も

 記憶の傷に這いずって

 消えぬものであろうに

 (峠三吉 同上)

 
 三吉はいたたまれない気持ちになる。
 時は1950年。広島は本格的な復興が始まろうとしていた。『影』には「ノンストッキングの復興」とあるが、「ノンストッキング」って何だろう。「むき出し」ということか。
 その中で「人影の石」は「原爆遺跡」の看板が掲げられているという。「どろどろと臓腑ごと溶けて流れた血の痕」が「過去の遺物」にされてしまっているのだ。
 「遺跡」ならまだましかもしれない。本当は、「原爆名所」である。
 三吉の苦悩は続く。苦悩の詩が続く。『微笑』という詩では三吉は爆発しそうになっている。そして『景観』という詩で三吉は「炎」となり、爆発する「その日」を待っている。
 
 ところで、峠三吉は『影』の中で、「子ども」ではなく「クツミガキの子」に、「人影」を「なァんだ」といわせているが、どうなんだろう。