峠三吉『原爆詩集』より18~クツミガキの子1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1946年1月19日、当時広島市の西隣だった五日市町皆賀(現 広島市佐伯区)に広島市戦災児育成所が開設された。(新田光子『広島戦災児育成所と山下義信』法蔵館2017)

 開設当初に入所していた子どもたちは、比治山国民学校にあった広島戦災児収容所の子どもたちが33名、そして集団疎開児童が30名だった。(新田光子 同上)

 比治山の戦災児収容所の子どもたちは、原爆に遭って親兄弟と離れ離れになってしまった子どもたち。集団疎開児童の子どもたちは、疎開先から広島に帰ってきても誰も迎えに来てくれなかった子どもたちだ。このような子どもたちが「原爆孤児」と呼ばれ、広島市の推定では6500人いたとされるが、実態は十分には把握できていない。そしてこの子どもたちの中には靴磨きなどで街角に生きた子どもたちも多くいたようである。

 比治山国民学校内に設けられた広島戦災児収容所は原爆の混乱のさなか、迷子の収容所として8月8日に開設された。8月末までに赤ちゃんを含め91人収容され、32人が親や親せきに引き取られた。その一方で、 9人の子どもは髪の毛が抜け、下痢が止まらず、やせ衰えた姿で死んでいった。(「中国新聞」2017.1.4)

 斗桝良江さんは学校に泊まり込んで子どもたちの世話を続け、赤ん坊には自分の乳房を含ませた。

 

今思っても不思議でならないのは、誰一人、つらい苦しいと訴えたものがいなかった事である。みんな静かな最期だった。しかし、もしそこに母がいたら苦しみを訴えたであろうに。

 自分の名さえ知らぬ子、自分の名がやっと言える子らが、私達に甘える事もようせず死んでしまった事を思うと、ふびんでならないのである。(斗桝良江「記録 比治山国民学校迷子収容所 五日市戦災児育成所」『広島原爆戦災誌』)

 
 斗桝さんの「記録」には11名葬ったと書かれている。五日市に移るまでに何名亡くなったかは定かではない。